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館岡栗山

日本の画家 (1897-1978) ウィキペディアから

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館岡 栗山(たておか りつざん、1897年9月9日[1] - 1978年10月16日[2])は、日本の日本画家。本名は豊治[2]

経歴

秋田県馬川村高崎(後の秋田県五城目町高崎)の生まれ。小学校を卒業後、1911年秋田師範学校講習科に進学したものの、肋膜炎のため1年で中退する[3]。以後、独学で絵を描き続け、五城目町の落合病院で事務員として就職してからも、折りをみては季節の風物をスケッチしていた。

1919年、22歳のときに家出同然に上京し、絵の修行をしようとしたものの、病を得て半年ほどで帰郷。健康を回復して25歳のときに改めて上京、アルバイトをして生活費を稼ぎながら絵の修行に励んだ。その頃、画号を長春から栗山に改めた。号の由来は、郷里の五城目町のシンボル的な里山である森山が、栗のような形にも見えたことによる。1925年1月からは48回にわたって秋田の県内紙秋田魁新報に「秋田百景」を連載している。

1926年、日本画の世界でさらに研鑽を積むため京都に移り住んだ。1928年日本美術院近藤浩一路に師事し、1933年、36歳で「台温泉」という作品で院展に初入選を果たした[2][3]1936年、近藤浩一路は日本美術院を脱退するが、栗山は師と行動を共にせず、美術院研究会員となって院展に出品を続け、入選を繰り返した。翌年の研究会展作品『雨後』が横山大観賞を受賞[2][3]、これを契機に安田靫彦に師事する[3]。1939年には院友に推された[2]

1945年4月、48歳で京都から郷里五城目町に疎開[1]、翌年には隣町である一日市町(後の八郎潟町)に移り住む[1]1951年、地域新聞「湖畔時報」を創刊し、社主になった[3]。1958年、日本画研究グループ「新樹社」を設立、秋田の代表的展覧会である県展の審査員も務めた。1962年、秋田県文化功労者[2][3]1968年、院展に初入選以来連続入選30回を数え[1]、院展特待・無鑑査となった[2][3]1970年に勲五等双光旭日章を受章。

著書に『銀婚』、『栗山画談』がある。

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人物

栗山は郷里秋田への思い入れが強く、のちには秋田の風物が主要な題材となった。秋田の風景や行事、伝承芸能などを好んで描き、地方色豊かなマニエリスム風の微細な描写が特徴である。

俳句や短歌にも親しみ、若いころには同郷の俳人北嶋南五草皆五沼などとも親交があった[1]。大正期には俳誌『山彦』を主宰している。五城目町の雀館公園には栗山の句碑がある。短歌では同郷の歌人中村徳也とともに学び[1]、夫人とともに短歌会「歌瀬歌会」をつくっている。

出典

参考資料

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