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高橋景保

江戸時代後期の天文学者(1785-1829) ウィキペディアから

高橋景保
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高橋 景保(たかはし かげやす、天明5年〈1785年〉 - 文政12年2月16日1829年3月20日〉)は、江戸時代後期の天文学者。通称、作左衛門。

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上野源空寺にある高橋景保墓(左手前)。奥に高橋至時・伊能忠敬の墓が並んでいる。
概要 高橋 景保, 生誕 ...

生涯

天文学者である高橋至時の長男として大坂に生まれた。渋川景佑は弟。

文化元年(1804年)に父の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測測量、天文関連書籍の翻訳などに従事する。

文化7年(1810年)、「新訂万国全図」を制作した(銅版画制作は亜欧堂田善)。一方で伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助する。忠敬の没後、彼の実測をもとに『大日本沿海輿地全図』を完成させる。ロシア使節ニコライ・レザノフが来日時に持参した満洲文字による国書を1808年に翻訳するよう命じられ、1810年に「魯西亜国呈書満文訓訳強解」を作成[1][2]。その後、満洲語の研究を進め、複数の著書を残している[3]

文化8年(1811年)、蛮書和解御用の主管となり、「厚生新編」を訳出する業務を始めている。

文化11年(1814年)には書物奉行兼天文方筆頭に就任した。

ヴァシーリイ・ゴローウニンの『日本幽囚記』(1816年)がロシアで出版された際には、その誤った記述を正すため、ゴローヴニン事件でともに逮捕したムール少尉の「獄中上表」をオランダ語訳し、ヨーロッパで出版する計画を推進したが、シーボルト事件により果たせなかった[4]

文政11年(1828年)のシーボルト事件に関与して10月10日11月16日)に伝馬町牢屋敷に投獄され、翌文政12年2月16日(1829年3月20日)に獄死している。享年45。獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌文政13年3月26日1830年4月18日)に、改めて引き出されて罪状申し渡しの上斬首刑に処せられている。このため、公式記録では死因は斬罪という形になっている。

上野源空寺高橋至時伊能忠敬高橋景保の大日本沿海輿地全図組三人頭の墓地が並んでいる。

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高橋景保が登場する作品

小説

映画

テレビドラマ

舞台

漫画

脚注

関連項目

外部リンク

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