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麦倉俊三郎

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麦倉俊三郎
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麦倉 俊三郎(むぎくら しゅんざぶろう、1888年(明治21年)11月1日 - 1969年(昭和44年)7月7日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

概要 麦倉 俊三郎, 生誕 ...

経歴

栃木県出身。麦倉奉蔵の四男として生れる。宇都宮中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第65連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業。

1921年(大正10年)5月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第19師団参謀陸軍兵器本廠付(軍事調査部)などを経て、1927年(昭和2年)10月、歩兵少佐に昇進。1928年(昭和3年)12月、歩兵第61連隊大隊長となり、歩兵第27連隊付、第1師団参謀、陸軍歩兵学校教官などを歴任し、1936年(昭和11年)3月、歩兵大佐に昇進し独立歩兵第11連隊長に就任した。関東軍司令部付、近衛師団参謀長を経て、1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進級し第32歩兵団長に発令され日中戦争に出征し、山東省西部の警備を担当した。

1940年(昭和15年)8月、独立混成第9旅団長となり、第62独立歩兵団長を経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍中将に進み、翌月、第52師団長に親補され金沢に駐屯した。1944年(昭和19年)1月、第52師団はトラック島に派遣され、同年8月、第31軍司令官小畑英良中将が戦死したことに伴い第31軍司令官代理を兼務。1945年(昭和20年)1月、正式の第31軍司令官となり第52師団長事務取扱を兼務した。 トラック島で終戦を迎え、同年9月2日、司令官として降伏文書に調印した[1]1946年(昭和21年)2月に復員

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]

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栄典

脚注

参考文献

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