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黄小娥
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黄 小娥(こう しょうが、1913年1月12日[1] - 没年不詳)は、熊本県山鹿市出身[2]の易者である。1961年に『易入門』を出版し、占いブームを引き起こした[3]。本名は川津 久佳[4]、川津 久於[5]、川津 久子[1]などとされておりはっきりとしていない。
略歴
『易入門』の著者紹介では、生まれや育ち、国籍も不明で、親も夫もなく天涯孤独であるとされており[6]、本名や経歴は明かされていなかった。
しかし、同書の人気が高まると週刊誌の暴露記事などで経歴が明らかとされた[7]。熊本県山鹿市の履物屋の娘として生まれたが[2]、幼い頃に母と死に別れ、継母の元で育った[3]。熊本県立山鹿高等女学校卒業後[2]、17歳で熊本市の建築材料店経営者と結婚し一男一女をもうけたが、戦後に離婚しひとり家を出たという[2][3]。その際に所持していた資金を元に小金貸しをしながら占いの勉強を始め、熊本市内に店を構えるよになった[2][3]。その後上京し、10年間易学校で学び、四谷駅前のアパートで易者として仕事を行っていた[3]。のちに高木彬光から光文社を紹介され[6]、百円玉や十円玉を筮竹や算木の代わりにして占う『易入門』を執筆したという[3]。光文社からは自身の出自などに関して口外しないように言われており、謎の易者というイメージを創られていた[6][注釈 1]。出版当時、年齢は40~50歳と推測されていた[3]。
『易入門』は、1961年に光文社から出版され、1987年には文庫化をされた。『易入門』が出版された際、黄を見出した高木彬光は[9]、『著書は現在易占の第一人者。学術ともに兼ね備えた名人』と賛辞をよせている[6]。
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評価
井上ひさしは、経歴不詳の「ナゾの美人」と演出することで占い師としての神秘性と謎の創出に成功し、『易入門』の人気が生まれたと評している。また、黄はブームの中でも不愛想な態度をとっており、井上はそこに易者としての好感を持ったと語っている[3][11]。
連載記事『ベストセラーの戦後史』の第18回において、『易入門』を昭和37年最大のベストセラーとして取り上げており[11]、五十本の筮竹と六本の算木をわずか六枚の硬貨で代用する方法を教えたこと、難解な易経の教えを易しく説いたこと、この2点において本書は画期的であったとしている[3]。また、易経は「座右に備えて、あてもなくページを繰っては、人生全般に関する助言をありがたく汲み取る」のが賢い利用法であるとし、この易経の本質を本書はかなり忠実に写しており、占いをするでもなく漫然と読んでいる読者もとらえるような魅力があると語っている[3]。井上によると、この本をきっかけに易経に興味をもって触れたという人も多かったという[3]。
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著書
映画
原案
脚注
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