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黄金の門 (キーウ)

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黄金の門(おうごんのもん、ウクライナ語: Золоті ворота;ゾロチー・ヴォロータ)は、ウクライナの首都キーウの歴史的地区にある史跡で、キエフ大公国時代の主要な市門である。ヤロスラフ賢公の都市計画の一環として1017年–1024年に建設され、コンスタンティノポリスの黄金の門にちなんで名付けられた。聖ソフィア大聖堂とともにキーウの象徴であり、国立ソフィア・キエフ保護区が管理するユネスコ世界遺産の一部を構成する。歴史家ミコラ・ザクレフスキーは「キーウの古の栄光と威厳の貴重な遺物」と評した[1]

概要 黄金の門, 概要 ...
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概要

黄金の門は、キーウの「ヤロスラフの都市」を守る三つの主要な門(黄金の門、リャド門ジディフ門)の一つで、唯一の石造りの門だった。1037年の『原初年代記』によれば、ヤロスラフ賢公がキーウの土塁と城壁を整備し、西部の入口に黄金の門を建設した[2]。門の上には受胎告知教会が設けられ、キーウのキリスト教都市としての威信を示した。門は外交使節の入城に使用される儀礼的な入口でもあり、防御塔としての役割も果たした[3]

建築と構造

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1651年の黄金の門(アブラハム・ヴァン・ヴェスターフェルト画)

黄金の門は、幅10.5m、高さ13.36m、長さ17.5mの石造りの防御塔で、土塁と接続されていた。建設は1017年–1024年とされ、聖ソフィア大聖堂と同じ「オプス・ミクストゥム」技法(石とプリンファの交互積み)が用いられた[3]。門の通路は幅7.5m、高さ9.5mで、内部は7組のピラスターと二段のニッチで装飾された。外壁には聖母マリアのフレスコまたはモザイクが施され、1151年の年代記でイジャスラフ・ムスティスラヴィチが門前の聖母像を仰いだ記録が残る[2]。2016年、現代のモザイク「ニコペイアの聖母」が市側ファサードに設置された。

門は二重の防御壕に守られ、外部からの侵入を阻止。バトゥ1240年の侵攻でも黄金の門は突破されず、攻撃はリャド門に集中した[3]。門上の受胎告知教会は四柱式の単ドーム構造で、ビザンツ建築の影響を受けつつ、ルーシ特有の装飾(煉瓦のオーナメント、モザイク床)が施された[4]

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歴史

建設と初期

黄金の門の初出は1018年のポーランドのガルス匿名紀で、ボレスワフ1世スヴャトポルクを支援し、キーウを占領した際に門を剣(シチェルビェツ)で打ち、勝利を象徴したと記される[5]。建設はヴォロディミル聖公の時代に始まり、ヤロスラフ賢公が完成させた可能性が高い[6]。門は外交使節の歓迎やアンナ王女の出嫁など、重要な儀式に使用された。

荒廃と再発見

1240年のモンゴル帝国の侵攻で門は部分的に破壊され、16世紀以降は半壊状態にあった。1584年、マルティン・グルネヴェークは「門は立ち続けているが、大半が崩壊」と記録し、1651年のアブラハム・ヴァン・ヴェスターフェルトのスケッチでもアーチと教会の残骸が確認される[3]。1648年、ボフダン・フメリニツキーが勝利後に門前で歓迎された記録が残る。17世紀中盤、門は上町古キーウ要塞に組み込まれ、土塁とバステョンで強化されたが、18世紀に老朽化を防ぐため土で覆われた[3]

1832年、考古学者キンドラート・ロフヴィツィクィイが発掘を行い、東側ピロン(25m)と西側ピロン(13m)を露出。1833年以降、ニコライ1世の命令で国家資金が投入され、1834年6月25日に公開された。1835–1836年、壁上部に石灰モルタルを注入し、1837年に鉄製補強材とコントルフォールが追加された[3]

復元と現代

1970年代、大気汚染による遺跡の劣化を防ぐため、1982年にキーウ1500周年記念を機にパビリオンが建設された(設計:エウヘニア・ロプシンシカミコラ・ホロステンコセルヒー・ヴィソツィクィイ)。パビリオンは11世紀の外観を再現し、門の遺跡を保護。門に接続する土塁の一部と木製の防御柵も復元された。2002–2007年、耐久性の問題から再修復が行われ、2007年12月5日にヴィクトル・ユシチェンコ大統領出席のもと再公開された[7]

博物館

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博物館内の11世紀の遺跡

黄金の門は国立ソフィア・キエフ保護区が運営する「黄金の門博物館」として公開されている。展示は門の建設史、防御システム、修復の過程を紹介し、11世紀のピロン(東側25m、西側13m)と12世紀の修復跡が中心。内部には土塁の木製構造の痕跡や、15m幅・8m深の防御壕の模型が展示される。2006年、グラフィティによる損傷で一時閉鎖されたが、2009年に修復を終え再開[3]。博物館はゾロトヴォリツィクィイ広場に隣接し、階段からキーウのパノラマを望む。

文化的意義

黄金の門はキーウの文化的シンボルであり、ムソルグスキーの『展覧会の絵』の終曲「キエフの大門」で国際的に知られる[8]。2019年、シュカイ・プロジェクトの一環で、ヤロスラフ・ヴァル通り21/20番地の壁に「黄金の門」のミニ彫刻(作者:マルコ・ハレンコ)が設置された。この彫刻には「触ればすべての門が開く」との言い伝えがある[9]。1997年、隣接する広場にヤロスラフ賢公像が建てられた。

ギャラリー

注釈

^ 1037年の年代記は聖ソフィア大聖堂など「ヤロスラフの都市」の複数の建設を記録。
^ 1240年以前のキーウの人口は約5万人[1]
^ アンリ1世の使節が黄金の門を通って入城した可能性[3]
^ 門上教会はビザンツ建築の影響を受けつつ、ルーシ独自の特徴を持つ[1]

脚注

参考文献

外部リンク

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