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龍造寺家就

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龍造寺 家就(りゅうぞうじ いえなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将肥前国の戦国大名龍造寺氏の一門。

概要 凡例龍造寺 家就, 時代 ...

生涯

肥前国人・龍造寺氏17代当主・龍造寺胤久の子として誕生。

龍造寺18代当主で実兄・胤栄天文17年(1548年)に病死した際、自身より水ケ江龍造寺氏の龍造寺隆信が優れていることを察して、後継を拒絶し、隆信に本家を継がせ、自身はその補佐に当たった。その後は、島津氏との合戦で軍功を挙げたという。

天正16年 (1588年)、肥後国人一揆が勃発し、豊臣秀吉は各大名にこれを鎮圧するよう命を下したが、隆信の後継である政家は病床にあったため、家就は出馬を思い留まらせた[1]。そのことで秀吉の勘気を被ったことから、翌年2月に浪人して小城の岩蔵[2]へ引き籠ると剃髪し、夢菴と号した[1]

嫡男・光則は、鍋島一族の重臣石井忠尊の養子となり、子孫は佐賀藩に仕えた。

脚注

出典

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