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1952年イギリスグランプリ
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1952年イギリスグランプリ (V RAC British Grand Prix) は、1952年7月19日にシルバーストン・サーキットで開催されたフォーミュラ2のレース。このレースは1952年のF1世界選手権の第5戦でもあったが、通常適用されるフォーミュラ1のレギュレーションではなく、1952年と1953年はフォーミュラ2のレギュレーションが適用された。
新しいピット設備がウッドコートとコプスの間に建設された。元のピットはアビーとウッドコートの間に位置していた。
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レース概要
要約
視点
ジャン・ベーラは一週間前のノンタイトル戦、グランプリ・デ・サーブル=ドロンヌで肩甲骨を骨折、イギリスGPに参加することができなかった。その結果、前戦でシムカ・ゴルディーニ・T15をドライブしたモーリス・トランティニアンがベーラのゴルディーニ・T16をシルバーストンでドライブすることとなった。その他ゴルディーニチームはレギュラードライバーのロベール・マンヅォンとプリンス・ビラも投入した。ベルギー人ドライバーのジョニー・クレエは前戦同様「エキュリー・ベルゲ」の名称でプライベート・エントリー、シムカ・ゴルディーニをドライブした。フェラーリも前戦と同じ、表彰台を独占した3名 - アルベルト・アスカリ、ニーノ・ファリーナ、ピエロ・タルッフィ - を投入した。また、多くのプライベーターもフェラーリをドライブ、エキュリー・エスパドンからフィッシャーとヒルト、その他ピーター・ホワイトヘッドとロイ・サルヴァドーリが参加した。HWMはレギュラー2名に地元ドライバーを加えるという方針を継続、ピーター・コリンズとランス・マックリンに加えてダンカン・ハミルトンを起用した。コンノートはリー・フランシスエンジンを搭載した車両で4名を起用、マッカルパイン、ダウニング、トンプソン、プーアが参加した。その他にも多くのプライベーターが様々な車両で参加し、その中にはクーパーやマセラティが含まれた。
3台のワークスフェラーリはファリーナによって率いられ、予選トップ3を独占、これに加えてマンヅォンがフロントローに並んだ。2列目はダウニングに続いてクーパー-ブリストルのペア、レグ・パーネル、マイク・ホーソーンが並んだ。3列目はコンノートのプーア、トンプソン、ゴルディーニのビラ、HWMのハミルトンが並んだ。
レースはアスカリが初めからリード、全85ラップを首位のまま走行し、3連勝を挙げた。ポールシッターのニーノ・ファリーナは初めの26ラップを2位で走行したが、スパークプラグ交換のためピットインすると順位が落ち、結局6位でフィニッシュ、ポイントを得ることはできなかった。タルッフィはスタートに失敗、第1ラップの終わりまでに9位に沈んだものの、追い上げて2位に浮上、アスカリの一週遅れでフィニッシュした。デニス・プーアはファリーナのピットストップ後3位で走行、燃料補給のためピットインしなければならなかった。そのためホーソーンが3位を引き継ぎ、彼はレースの残り、順位を維持した。彼はタルッフィの一週遅れでフィニッシュし、世界選手権における初の表彰台を獲得した。プーアは4位、チームメイトのエリック・トンプソンが5位に入ってポイントを獲得した[1]。
アスカリは優勝とファステストラップで選手権ポイントのリードを再び広げることになった。チームメイトのタルッフィに対して8ポイントの差を付けた。ファリーナはポイントを得ることができず、7ポイント差でタルッフィの後に付けた。
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エントリーリスト
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結果
予選
決勝
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注
- デヴィッド・マレーの最後のレースであった。
第5戦終了時点でのランキング
- 注:トップ5のみ表示。ベスト4戦のみがカウントされる。
参照
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