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1968年のロードレース世界選手権
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1968年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第20回大会である。4月にニュルブルクリンクで開催された西ドイツGPで開幕し、モンツァで開催された最終戦イタリアGPまで、全10戦で争われた。
1968年の FIMロードレース世界選手権 |
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前年: | 1967 | 翌年: | 1969 |

シーズン概要
要約
視点
フランスGP、カナダGP、日本GPがカレンダーから消え、この年の世界選手権は全10戦となった。250ccと500ccのレースが全てのグランプリで開催されたのに対し、50ccクラスは前半の5戦のみの開催となった。
シーズン開幕前の2月、ホンダはこの年のグランプリにワークスチームを送り込まないことを発表し、スズキもホンダの後を追うようにグランプリからの撤退を発表した[1]。前年、ホンダのマシンでタイトルを獲得したマイク・ヘイルウッドに対してホンダはマシンを貸し与えることを提案し、古巣のMVアグスタも再びヘイルウッドを迎え入れる意思を示したがヘイルウッドはグランプリから身を引くことを選んだため、250ccクラスと350ccクラスはチャンピオン不在のシーズンとなった[2]。一方、スズキは50ccクラスのディフェンディングチャンピオンであるハンス=ゲオルグ・アンシャイトに対し、前年型のワークスマシンを使用することを許した[3]。ホンダ・スズキ撤退の余波として日本GPも非開催となった。シーズン開幕時点では10月13日決勝の「世界選手権・第6回日本グランプリロードレース大会」として富士での開催が決まっていたが[4]、9月6日付けでMFJ日本モーターサイクルスポーツ協会より「日本GP開催をFIMに返上し、本年を含む当面の間その開催を見送る。」と発表された[4]。
日本のメーカーの中でもヤマハはグランプリに留まり、フィル・リードとビル・アイビーのチームメイト同士が125ccと250ccの両クラスでハイレベルなタイトル争いを繰り広げたが、この2人の戦いは後に禍根を残すものとなってしまった。この時代は、有力なワークスチームが確実にタイトルを獲るためにチームオーダーによってレースの勝敗そのものをコントロールするということがごく普通に行われており、この年のヤマハも両クラスのタイトルを確実なものとするために125ccはリードに、250ccはアイビーにそれぞれタイトルを獲らせようとしていた。しかし、ヤマハもワークスを撤退させると予想していたリードはこの年がタイトル獲得の最後のチャンスだと考え、125ccに加えて250ccのタイトルも獲りにいったのである。思惑通りにダブルタイトルを獲得したリードだったが、リードのこの行為に激怒したアイビーは4輪レースへの転向を発表した[5]。そしてリードの予想通りにヤマハもこの年限りでワークス活動を休止し、リードは以後ヤマハの市販マシンでグランプリを戦うがヤマハがリードに対してサポートすることはなく、リードの引退後も両者の関係は疎遠なままとなってしまっている[6]。
この年、FIMは大掛かりなレギュレーションの変更を発表し、翌1969年から順次各クラスの気筒数などが制限されることとなった[7]。
500ccクラス
ホンダの4気筒がいなくなり、MVアグスタの相手は再びイギリス製の旧い単気筒マシンを駆るプライベーターばかりになった。ただ一人MVアグスタのワークス3気筒に乗るジャコモ・アゴスチーニは誰にも邪魔されずに10戦全勝し、3年連続タイトルを獲得した[8]。かろうじてアゴスチーニについて行けたのはマチレスに乗るジャック・フィンドレイのみで、アゴスチーニは多くのレースでフィンドレイ以外のライダーを周回遅れにした[9]。マン島TTでは、アゴスチーニは前年マイク・ヘイルウッドが出したコースレコードに及ばなかったにもかかわらず2位を8分以上引き離し、ベルギーGPでも2位との差は4分だった[10]。
最終戦のイタリアGPでは、ヘイルウッドがベネリのマシンで1度だけのカムバックを果たしたが、アゴスチーニとのトップ争いの最中にクラッシュした[3]。
350ccクラス
350ccクラスも500ccクラスと同様にMVアグスタとジャコモ・アゴスチーニが完全支配した。このクラスではベネリのワークス4気筒に乗るレンツォ・パゾリーニやアエルマッキのケル・キャラザースらが挑んだがアゴスチーニを止めることはできず、アゴスチーニはこのクラスでも7戦全勝で350ccでは初めてとなるタイトルを獲得した[11]。1人のライダーが350ccと500ccの2クラスで全戦全勝を記録したのは、1959年のジョン・サーティース以来のことだった[3]。
250ccクラス

250ccクラスでは、ヤマハのV型4気筒RD05Aに乗るフィル・リードとビル・アイビーというチームメイト同士の激しいタイトル争いが最終戦まで繰り広げられた。MZのハインツ・ローズナーやヤマハの市販レーサーに乗るロドニー・ゴウルドらも速さを見せたが、ヤマハ・ワークスの2人に割って入ることはできなかった[3]。
ヤマハの作戦は125ccクラスではリードのタイトル獲得をアイビーにサポートさせ、250ccクラスでは逆にリードをアイビーのサポート役に回らせるというものだった。シーズンの前半戦はアイビーが優勝したレースではリードは2位となり、アイビーが落としたレースでリードが優勝するという展開が続き、第6戦の東ドイツGP終了時点でアイビーの4勝に対しリードは2勝だった。しかし第7戦チェコスロバキアGPで125ccクラスのタイトルを獲得したリードは250ccクラスでも自分が勝つために走ると宣言し、その言葉通りにアイビーを破って勝ってしまった。そして続くフィンランドで連勝したリードは最終戦イタリアでもアイビーを抑えて優勝し、2人は同ポイントでシーズンを終えた[12]。両者とも5勝を挙げて2位が2回ずつと戦績も全く互角だったが、全てのレースタイムの合計で勝敗を決めるという判定の結果、タイトルはリードのものとなった[5][13]。
125ccクラス

125ccクラスも250ccと同様に、V型4気筒RA31Aに乗るフィル・リードとビル・アイビーによるヤマハ・ワークス同士の争いとなったが、アイビーはヤマハのチームオーダー通りにリードのサポートに徹し、リードは順調に勝利を重ねた。開幕戦をリードが制した後、第2戦のスペインではリードとアイビーの両者がリタイヤしたためにブルタコのサルバドール・カネヤスがGP初優勝を飾ったものの、第3戦以降はリードが連勝を続け、第6戦チェコスロバキアで5勝目を挙げてタイトルを決めた[3][14]。
50ccクラス
ホンダやスズキのワークス撤退と入れ替わるように、モペッドなどの小排気量モデルを得意とするヨーロッパのメーカーがグランプリの軽量クラスに本腰を入れ始めており、50ccクラスではスペインのデルビやドイツのクライドラー、オランダのヤマティなどが力を着けてきていた[3]。しかしディフェンディングチャンピオンのハンス=ゲオルグ・アンシャイトが持ち出すことに成功したスズキの前年型ワークスマシン、水冷2気筒RK67の優位は揺るがず、アンシャイトは開幕戦から2連勝した。マン島TTではバリー・スミスのデルビが、ダッチTTではポール・ロデウィックスが乗るヤマティがそれぞれグランプリ初優勝を飾ったが、このクラスの最終戦となったベルギーGPで3勝目を挙げたアンシャイトが3度目のタイトルを獲得した[15]。レギュレーション変更によって翌年から50ccクラスは単気筒マシンに制限されたために2気筒のRK67はグランプリへの出場が不可能になり、アンシャイトはこのタイトルを最後にグランプリから引退した[3]。
この年のマン島TTで3位となったレスリー・グリフィスはこの時54歳で、グランプリの表彰台最年長記録である[3]。
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- 500・250ccクラスは上位入賞した6戦分、350ccクラスは上位入賞した4戦分、125ccクラスは上位入賞した5戦分、50ccクラスは上位入賞した3戦分のポイントが有効とされた。
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