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ジャコモ・アゴスチーニ

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ジャコモ・アゴスチーニ
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ジャコモ・アゴスチーニGiacomo Agostini1942年6月16日 - )は、イタリア出身の元モーターサイクルロードレーサー[1]。イタリア語で「針」という意味の「Ago(アーゴ)」というニックネームで知られた。1960年代-1970年代にかけてロードレース世界選手権で活躍、500ccクラスと350ccクラスで122回の優勝を果たし、計15ものタイトルを獲得している。史上最高のロードレーサーと見なされ[1]、68勝と8度のタイトルを500ccで記録し、残りは350ccでの記録である。

概要 ジャコモ・アゴスチーニ, 生年月日 ...

1999年にMotoGP殿堂Motorcycle Hall of Fame)入りしている。

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概要

要約
視点

初期の経歴

ロンバルディア州ブレシアで父親アウシリオと母親マリア・ヴィットーリアの間に生まれた。一家はローヴェレの出で、そこで父親は地元の議会に雇われていた。4人兄弟の長男であったアゴスチーニは初めヒルクライム、次いでロードレースを行うようになったが、父親は息子のモータースポーツを快く思わず、アゴスチーニは父親を説得しなければならなかった[1]

結局、父親はレース活動を許可し、アゴスチーニは1963年にイタリア175cc選手権にモト・モリーニで勝利した。モリーニのファクトリーライダー、タルクィニオ・プロヴィーニベネリに移籍し、その後任としてファクトリーライダーになることでアゴスチーニはブレイクした。アルフォンソ・モリーニ伯は若きアゴスチーニを起用した[1]1964年、アゴスチーニはイタリア350cc選手権のタイトルを獲得し、モンツァで行われたイタリアGPで4位に入ることでその能力を示した[2]

世界選手権へ

これらの結果はドメニコ・アグスタ伯の目にとまり、アゴスチーニはMVアグスタと契約、マイク・ヘイルウッドのチームメイトとなった[1]1965年シーズン、アゴスチーニは350ccクラスでホンダジム・レッドマンとタイトルを争った。シーズン最終戦、日本GPで彼のマシンは不調となり、タイトルはレッドマンの物となった。

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1968年

1965年シーズンが終わると、ヘイルウッドは気難しいアグスタ伯の下で走るのに嫌気がさしホンダに移籍した。アゴスチーニはMVアグスタの第1ライダーとなり、彼はそれに応えて500ccのタイトルを7年連続で獲得した[1]。彼はまた、350ccのタイトルも7回獲得し、マン島TTレースも10回制した。彼は現在もイギリス人以外で同レースを10回制した唯一のライダーである。1967年シーズンはヘイルウッドとタイトル争いをすることになるが、グランプリ史上最もドラマチックなシーズンの1つとなった。最終戦はヘイルウッドが勝利し、両名とも5勝を挙げたものの、有効ポイントの差でアゴスチーニがタイトルを獲得した。

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350cc練習走行(1976年、ニュルブルクリンク

1972年のマン島TTレースジルベルト・パロッティが事故死し、アゴスチーニは2度とマン島TTレースに参加しないと発表、グランプリ界に激震が走った。彼は37マイルのコースが世界選手権を戦うには危険だと考えた。当時TTレースはカレンダーの中で最も権威のあるレースであった。その他のトップライダーも彼のボイコットに賛同し、1977年にマン島TTはグランプリのカレンダーから外れることとなった。

アゴスチーニは1974年シーズンをヤマハで戦うと発表し、レース界を驚かせた。日本メーカーのファクトリーライダーとして彼は、アメリカでの2輪レースで最も権威のあるデイトナ200で勝利した[3]。その年彼は350ccのタイトルを獲得したものの、500ccは負傷と機械的問題のためタイトルを逃がした。1975年は500ccのタイトルを獲得、2ストロークマシンで最高峰クラスを初めて制することとなった。

1975年のタイトルはアゴスチーニにとって最後のタイトルとなった。1976年、彼は500ccにスズキとMVアグスタで参加し、350ccではアッセンで唯一勝利した。ニュルブルクリンクでは500ccにMVアグスタで参加、優勝したがこれが最後の勝利となった。この勝利は4ストロークマシンにとっても最後の勝利となった。

1977年シーズンは復帰したヤマハで戦いシーズン6位となった。この年をもってアゴスチーニは世界GPを引退、同様に750cc耐久も引退した。

概要 ジャコモ・アゴスチーニ, 基本情報 ...
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その後の活動

4輪レース

ジョン・サーティースマイク・ヘイルウッドと同様に、2輪引退後にF1選手権に参加した。1978年にノンタイトル戦に参戦したのち、ヨーロピアン・フォーミュラ2シリーズにシェブロンB42-BMWで、ブリティッシュフォーミュラ1選手権に自身のチームでウィリアムズ・FW06で参戦する。1980年に全てのレースから引退した[4]

チーム監督として

1982年マールボロヤマハ・チーム監督としてWGPに復帰した。同年はスクエア4エンジンを搭載した82年型YZR500(OW60)を走らせ、グレーム・クロスビーがシリーズランキング2位を獲得。翌83年シーズンからは事実上のヤマハワークスチーム待遇となり、ケニー・ロバーツが6勝を挙げランキング2位(ロバーツはこの年を最後にWGPから引退)。翌84年はエース待遇となったエディ・ローソンがチームに初の500ccタイトルをもたらした。以後ローソンは86年、88年にもタイトルを獲得し、チームとしても全盛期を迎えることとなった。その一方で1986年から1990年までは250ccクラスにも参戦、マーチン・ウィマー平忠彦ルカ・カダローラ、アレックス・クリビーレを起用した。250㏄クラスではタイトル獲得はならなかったが、86年は平、87年はウィマー、88年以降はカダローラが毎年勝利を挙げた。その他では1982年のデイトナ・フォーミュラ1(クロスビー)、1983年および1984年のデイトナ・フォーミュラ1(ロバーツ)、1986年のデイトナ・スーパーバイク選手権(ローソン)のタイトルも獲得したが、ローソンがホンダに移籍した89年は前年に現役引退を発表していたフレディ・スペンサーを招聘したものの成績は一機に下降、90年には500ccにおけるマールボロのスポンサードを失ったため、最高峰クラスから撤退することとなった。

1992年からはカジバ・ファクトリーチームの監督となり、1994年にカジバが撤退するまで同職を務めた。1995年ドリアーノ・ロンボニを起用してホンダのマシンで250ccに参戦したが、これが最後のシーズンとなった。

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戦績

要約
視点

1968年までのポイント制度:

順位 1 2 3 4 5 6
得点 8 6 4 3 2 1

1969年以降のポイント制度:

順位 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
得点 15 12 10 8 6 5 4 3 2 1
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フォーミュラ750成績

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ブリティッシュフォーミュラ1選手権成績

(凡例)

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参照

外部リンク

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