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1983年の世界ラリー選手権
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1983年の世界ラリー選手権(1983 World Rally Championship season)は、FIA世界ラリー選手権の第11回大会となる。全12戦でタイトルが争われた。今回までにスケジュールはより安定化し、年に1、2カ所のみの変更となった。1983年はブラジルに代わってアルゼンチンが復帰することとなった。アウディのハンヌ・ミッコラが、前年度チャンピオン、ランチアのヴァルター・ロールとそのチームメイト、マルク・アレンを打ち破ってタイトルを獲得した。ランチアはアウディを2ポイント上回ってマニファクチャラーズ・タイトルを獲得した。
1983年の世界ラリー選手権 | |||
優勝ドライバー![]() 優勝マニュファクチャラー ![]() | |||
前年: | 1982 | 翌年: | 1984 |
シーズン概要
前年度チャンピオンのヴァルター・ロールは新たにマルティーニ・レーシングに加入、チームメイトのマルク・アレンと共に新型のランチア・ラリー037をドライブした。一方、アウディ・スポーツは前年の成功を引き継いで、ハンヌ・ミッコラとミシェル・ムートンにアウディ・クワトロ A1(シーズン後半にはA2にアップグレードした)を託した。アウディはまた後のチャンピオン、スティグ・ブロンクビストも起用した。ロスマンズ・オペルは元チャンピオンとアリ・バタネンと、同じくフィンランド人ドライバーのヘンリ・トイヴォネンを起用してオペル・アスコナ 400を投入した。

シーズンはドライバー、マニファクチャラー共に激しく争われた。ワークスの戦いはすぐにアウディとランチアが中心となった。両チームの車は12戦で10勝を挙げ、36の表彰台の内30を独占した。ランチアはマニファクチャラーズ・ランキングをリードし、1970年代半ばに3度のタイトルを得て以来のタイトル獲得となった。アウディのパフォーマンスは印象的で、シーズン前半は2位に留まっていたが最終4戦では3勝を挙げランチアを捉える寸前まで追い上げた。ドライバーズ・タイトル争いはそれほど激しくなかったと言うわけでは無く、マルティーニ・レーシングの二人がシーズンを通してポイントを獲得したものの、アウディのミッコラがそれを上回った。ミッコラは4勝と7つの表彰台を得、結局安全なマージンを得てタイトルを獲得した。チームメイトのブロンクビストも印象的な活躍をし、最終戦で勝利しランキング4位を得た。しかしながらムートンのシーズンは期待外れなもので、ポイントを離されてランキング5位となった。一方、ロスマンズ・オペルは思うような結果を残せず、サファリで得たバタネンの勝利がハイライトとなった。これはオペルにとって唯一の表彰台となり、バタネンはランキング6位となった。
前年同様ドライバーズ・ランキングは全戦の結果が有効であったが、マニファクチャラーズ・ランキングは10戦のみが有効となった。ドライバーズ・タイトルのみのイベントはスウェーディッシュ・ラリーとラリー・コートジボワールであった。
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