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1993年のドイツツーリングカー選手権

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1993年のドイツツーリングカー選手権は、ドイツツーリングカー選手権の10回目のシーズンである。

1993年のドイツツーリングカー選手権
前年: 1992 翌年: 1994

FIAのクラス1ツーリングカー規定で実施された初のシーズンであり、エンジンは6気筒2.5リッターに制限されたが、それ以外はシャシー、空力とともに変更が許可された[1]。アルファロメオを駆るイタリア人ドライバーのニコラ・ラリーニが、AMG-メルセデスローランド・アッシュベルント・シュナイダーを抑えてタイトルを獲得した。

1993年の参戦チーム・ドライバー

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ニコラ・ラリーニが1993年にドライブしたアルファロメオ・155
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1993年の開催スケジュールと勝者

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  ノンタイトル戦
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レース結果とランキング

ドライバーズ・チャンピオンシップ

ポイントシステム:1位=20, 2位=15, 3位=12, 4位=10, 5位=8, 6位=6, 7位=4, 8位=3, 9位=2, 10位=1
予選順位は両レースに適用。

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† ノンタイトル戦のみ参加のため選手権ランキングでは順位無し。
‡ ノンタイトル戦。

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各ワークスの動向

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メルセデス・ベンツ・190E/C1
  • メルセデス・ベンツ

1993年のDTMにメルセデスはAMGから4台、ザクスピードから2台のクラス1仕様の190Eをエントリーさせた。またザクスピードがメルセデス・ジュニアチームの実務を担当し、1992年までのDTM仕様の190E2.5-16エボリューションIIを2台走らせた[2]。メルセデスはクラス1仕様のCクラスが間に合わず、前年まで使用していた190E2.5-16エボリューションIIをクラス1仕様に仕立て直した190E/C1で1993年シーズンを戦うことになった。クラス1仕様、V6エンジン搭載の155 V6 TIに対して、直4エンジンのままの190E/C1で戦うメルセデス勢は劣勢を強いられた。ドライバー達のアルファロメオ勢へのラフなドライビングも目立ち、メルセデスのマネージャーのノルベルト・ハウグは第6戦ノリスリンクでの記者会見でアルファロメオに対して謝罪した[3]。メルセデスはシーズン通算で8勝を挙げたもののドライバー、メイクスの両タイトルを1年で失った。

  • アルファロメオ

1993年のDTMにアルファロメオはアルファコルセ、シューベル・エンジニアリングの2チームから4台の155 V6 TIをエントリーさせた。クラス1仕様として開発、製作されたV6エンジン搭載の155 V6 TIは、直4エンジンのままのメルセデス190E/C1に対して競争力で優位に立ち、参戦初年度にしてドライバー、メイクスの両タイトルの獲得に成功した。ニコラ・ラリーニは、開幕戦のゾルダー、第5戦ニュルブルクリンク、第6戦ノリスリンクでの連勝を含む、10勝を挙げてドライバー・タイトルを獲得した。

  • オペル
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オペル・カリブラ

クラス1仕様のカリブラの開発のために1992年のDTMを欠場していたオペルが最終戦・ホッケンハイムで復帰した。ヨースト・レーシングがチーム運営を担当した。

  • BMW

1993年のDTMにBMWは新型のM3のクラス1仕様で参戦する計画を立てていた。しかし、ONS(ナショナルモータースポーツ協会)との間でホモロゲーションに関して意見の相違があり、1992年シーズン終了後DTMからの撤退を決定し、1993年のDTMにワークスチーム/マシンは出場しなかった[4]

第6戦・ノリスリンクからリンダ―がE36・M3のクラス1カーをアルミン・ハーネのドライブでエントリーさせるようになった[5]。リンダ―によるE36・M3の活動は、ワークスの先行開発の一環と推測されていた。しかし、エンジンは直4エンジンのままで競争力は十分なものとは言えなかった。

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クラス2

1993年のDTMはクラス1マシンとクラス2マシンの混走で行われた。しかしクラス2のエントリーはアルファロメオ・155オペル・アストラの2車種、計4台のみと少なくクラス不成立に終わった。

その他

1992年まではスパ24時間マカオ・ギアレースなどにDTMのワークスチームが出場し活躍していたが、1993年にはDTMのワークスチームによる海外レースへの参戦は行われなかった。ただ、プライベーターによって1992年までのDTM仕様のBMW・M3がニュルブルクリンク24時間レース[6]やマカオ・ギアレースに出場し、ギアレースで地元のドライバー、チャールズ・カーンのドライブで優勝している[7]

1993年のインターTECにDTMのチームをエントリーさせる計画が主催者のVICICによって進められた。メルセデス、アルファロメオ、オペルの各チームと交渉を行い、JAFも25秒間のピッストップ2回を条件にDTMマシンの参加を認めることになった[8]。その後、10月13日に行われた発表会でメルセデス/AMGから2台の190Eの出場が明らかにされた(出場ドライバーの中には当時全日本F3000で活躍していたハインツ=ハラルド・フレンツェンの名前もあった)。しかし、翌14日AMGから参加取り消しの連絡があり、メルセデス/AMGのインターTEC参戦は実現せずに終わった[5]

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参照

参考文献

関連項目

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