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J・H・モーガン
アメリカ出身の建築家 ウィキペディアから
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J・H・モーガン(Jay Hill Morgan、1873年12月10日 - 1937年6月6日)は、アメリカ・ニューヨーク州バッファロー出身の建築家。1920年(大正9年)に来日し、三菱合資会社地所部が計画する丸ノ内ビルディングや郵船ビルディングなど、日本の建設業近代化の礎となる大規模ビルディングの建設に設計技師長として参画。米国の先進的な施工技術を日本へ伝える大きな役割を果たした。1922年(大正11年)には設計事務所を開設し、1937年(昭和12年)に亡くなるまで、ベーリック・ホールなどの邸宅や学校・教会などのミッション建築を主体に、銀行や病院など多くの作品を設計した[1]。
経歴
- 1868年(明治元年)12月10日 - ニューヨーク州バッファローで家具職人トーマス・モーガンの長男として誕生[1]。
- 1885年(明治18年) - この頃、ミネソタ州ミネアポリスに一家で転居。
- 1889年(明治22年) - ワレン・B・ダネルの事務所に製図工(ドラフトマン)として勤務。
- 1892年(明治25年) - ウィスコンシン州ミルウォーキーのウィリアム・D・キンボールの事務所に製図工として勤務。この頃、オーガスタ・ジュヌビエーブ・ショッソーと結婚。
- 1896年(明治29年) - ミルウォーキーのオットー・ストラックの事務所に製図工として勤務。長女キャサリン・エレノア・モーガン誕生。
- 1898年(明治31年) - 次女ルシル・ベアトリス・モーガン誕生。
- 1899年(明治32年) - フラー会社の招きにより、ストラックと共にニューヨークへ。
- 1902年(明治35年) - ストラックの事務所退所。
- 1904年(明治37年) - 長男ジェイ・ハーバート・モーガン誕生。
- 1905年(明治38年) - ニューヨークの大型劇場ヒッポドロームを設計。
- 1909年(明治42年) - チャールズ・A.リードの導きにより、ニューヨーク・セントラル鉄道会社入社。
- 1911年(明治44年) - リードの逝去に伴い、ニューヨーク・セントラル鉄道会社退社。マンハッタン区マディソン街331で設計事務所を自営。
- 1920年(大正9年)
- 1922年(大正11年)
- 8月 - 日本郵船ビル内に建築設計事務所を開設。
- 12月 - フラー建築株式会社退社。
- 1923年(大正12年)9月 - 関東大震災。日本建築士会入会。
- 1926年(大正15年)4月 - 横浜露亜銀行(現在のラ・バンク・ド・ロア)内に事務所移転(横浜山下町51B)。
- 1928年(昭和3年) - ユニオン・ビルディング内に事務所移転(横浜山下町75)。
- 1937年(昭和12年)6月6日 - 横浜一般病院で逝去(68歳)。
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主な作品
- 東北学院大学 本館
- ラフィン邸(山手111番館)
- 松山東雲学園正門
- 旧横浜競馬場一等馬見所
- 横浜山手聖公会
- ベーリック・ホール
- チャータードビル
その他
- 横浜外国人墓地正門(大正期の竣工)神奈川・現存
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脚注
参考文献
外部リンク
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