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U35 (潜水艦・初代)
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U-35はドイツ帝国海軍がかつて運用したU31型Uボート潜水艦。潜水艦史上最多となる224隻の船を撃沈したUボートである。
ロタール・フォン・アルノー・ド・ラ・ペリエールがU-35の就役期間中において最も長い間艦長を務めた。ペリエールはU-35にて195隻の船を沈め、Uボートにおいて最も成功した潜水艦艦長となった。
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艦歴
1912年12月20日にキールのゲルマニアヴェルフト社にて起工された。納期は1914年3月1日とされていたが、ディーゼルエンジン開発における問題により延期され、ヴァルデマール・コファメルの指揮の下、1914年11月3日に就役、ヘルゴラント島に駐屯している第2艦隊に配備された。
U-35は、北海での偵察任務にて2度の哨戒を行った。その後3度の哨戒において17隻の商船を沈め、総登録トン数は合計25,716GRTとなった。モンテネグロのカタロ近海における戦闘後、U-34と共に3隻の商船を撃沈した。U-35はその後2度の哨戒を行い、さらに15隻を撃沈した。この中には、1915年10月23日にエーゲ海を航行していたイギリス海軍の「マルケット」が含まれていた[1]。
1915年11月9日、U-35はU-34と共に「カリフォルニアン」を撃沈した。「カリフォルニアン」は1912年4月15日の「タイタニック」沈没時、当該海域の最も近くを航行していたが救助活動を行わなかったことで知られている。U-34が初めに「カリフォルニアン」を雷撃した後、U-35は止めとなる雷撃を行った[2]。
1915年11月18日、ペリエールがU-35の艦長に就いた。ペリエールは主に地中海で15度の哨戒任務を指揮し、189隻の商船を撃沈、総登録トン数は計446,708GRTに及んだ。さらに、U-35は1916年2月29日にイギリスの砲艦「HMSプリムラ」を沈め、1916年10月2日にフランスの砲艦「リゲル」を沈めた。
1916年2月26日には武装商船の巡洋艦「ラ・プロヴァンス」を魚雷で撃沈した。「ラ・プロヴァンス」はセリゴ島の近海にて1,800名のフランス軍兵士を乗せており、990名を失った[3] 。
ペリエール指揮下における14度目の哨戒(1916年7月26日から8月20日)では54隻の商船(合計90,350GRT)を撃沈し、史上最も戦果を挙げた潜水艦哨戒となった。
U-35はまた、1916年10月4日にフランスの輸送船「ガリア」を撃沈し、600名から1,800名の乗員が亡くなった。
1918年3月17日にはエルンスト・フォン・フォークトがU-35の指揮を執った。フォークトは1918年9月7日から10月9日まで2度の哨戒を行ったが、エンジンの損傷によりどちらの哨戒もすぐに中断された。1918年10月14日、ハイノ・フォン・ハイムブルク指揮下にてキールに移管された。
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その後
第一次世界大戦後、U-35は1920年までイギリスのブライスに係留され、その後解体された。
ルーム40の保存文書
要約
視点
以下は英国海軍情報部「ルーム40」にて保存されているU-35の行動記録の逐語訳である[4]。
U-35
艦長は1916年1月までコファメルが務め、1918年まではペリエール、その後はフォークト。1914年11月初旬にキールで完成し、1914年11月15日から1915年1月12日まで艦隊で訓練を行った。その後北海に出航し、第2艦隊に加わった。
- 1915年1月19 - 21日。湾岸哨戒。
- ?1915年1月23 - 26日。湾岸哨戒。
- 1915年2月1日。湾岸哨戒。
- 1915年3月7 - 20日。ドーバー海峡経由でアイリッシュ海へ航行。
- 1915年4月29日 - 5月2日。北海。 S.S.1隻撃沈。エンジントラブルで帰投。
- 1915年5月29日から6月23日。アイルランドの南へのノースアバウト。 S.S.5隻、S.V.9隻撃沈。
- 1915年8月4 - 23日。ノースアバウトの地中海に向けてS.V.3隻を沈め、1915年8月23日にカタロに入港、カタロ艦隊に加わった。
- 1915年9月12 - 22日。カタロを離れ、S.S.3隻を沈めた。1つはC・マッタパンの近く、もう1つはクレタ島の南。カタロに戻った。
- 1915年10月初旬。詳細は不明。
- 1915年10月30日 - 1915年11月13日。11月5日、地中海東部にてエジプトのHMSタラを含めた11隻のS.V.を沈めた。巡洋艦アッバスと損傷したヌールエルバール、すべてソルム湾。11月8日、フランスの武装船に攻撃された。
- 1915年12月中旬から1916年1月6日。地中海中部。S.S.5隻を沈め、HMSミモザに対して2発の魚雷を発射した。
- 16年2月21日? 1916年3月4日。地中海中央で、3隻を沈め、オリンピックを2回攻撃、2月24日にHMSマーガレットと交戦した。
- 16年3月27日から4月17日。スペインの海域にてS.S.8隻が沈没。
- 16年6月。今月の航行で、U-35は6月21日にカルタヘナに投入された。S.S.19隻とS.V.21隻を撃沈。
- 16年7月27日から8月15日。カタロから地中海西部のスペイン海域への航行20日間で、U-35はS.S.29隻、S.V.24隻を沈めた。
- 17年2月6日から3月2日。地中海西部でS.S.7隻、S.V.6隻を沈めた。
- 17年3月30日から約5月6日まで。地中海西部でS.S. 3隻、S.V.3隻、もう1隻の商船を沈めた。
- 17年10月4/5日 - 11月6日。10月13/14日の夜、カタロを出てジブラルタル海峡を通過した。
- 17年12月7/8日-1918年1月1日。カタロを発ち、12月15日に水上飛行機に爆撃された。12月16/17日の夜にジブラルタル海峡を通過した。
- 18年2月。U-35はさらに巡航し、26,000トンの沈没が主張されました。この後、彼女の有名な司令官フォン・アルノー・デ・ラ・ペリエールが移籍。エルンスト・フォン・フォークトが艦長を引き継いだ。
- 18年8月と9月初旬の航行でS.S.3隻を撃沈。
- 18年10月にキールに戻り、1918年11月27日にハーウィッチに降伏した。
注:S.S. = 蒸気船; S.V. = 帆船; ノースアバウト = スコットランド周辺
ケルバー、ハンス・ヨアヒム(2009)。ルーム40:ドイツ海軍戦争1914-1918。第2巻、現存艦隊。スタインバッハ:LISライニッシュ。 ISBN 978-3-902433-77-0。戦果一覧

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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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