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アブー・イーサー・ムハンマド・ティルミズィー

ハディース専門の司祭 ウィキペディアから

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アブー・イーサー・ムハンマド・ティルミズィーアラビア語: أبو عيسى محمد بن عيسى بن سورة بن موسى بن الضحاك السلمي الترمذي, ラテン文字転写: Abū ‘Īsā Muḥammad b. ‘Īsā b. Sawra b. Mūsā b. al-Daḥḥāk al-Sulamī al-Tirmidhī)は9世紀のイスラーム法学者伝承学者。ティルミズィーが編纂したハディース集『スナン』は、スンナ派六大法学伝承集のひとつとして、よく参照されている。

情報源

ティルミズィーの生涯に関する情報の情報源としては、後世の学者が書いたハディース学者の列伝、たとえば、ミッズィー英語版(1341年没)の Tahdhīb al-kamāl や、ザハビー英語版(1348年没)の Siyar a‘lām al-nubalā’ がある[1]

生涯

824年にティルミズ(テルメズ)郊外、ジーフーン川(アム川)沿いの村、ブーグ(Būgh)で生まれた。生家はアラブ部族のバヌー・スライマーンに属す。幼少期より村のウラマーを師匠としてイスラーム諸学の学習に熱心であり、20歳のときに旅に出て、ホラーサーン各地を巡ったのち、クーファバスラを経てヒジャーズに至った。旅をしながら膨大なハディース(預言者ムハンマドの言行に関する伝承)を集めた。892年10月9日に故郷の村で亡くなった。晩年のティルミズィーは盲目になったが、そうなった理由は神への畏れのあまり、あるいは、師のブハーリーの死を知って、泣きすぎたからと言われている。

評価

ティルミズィーは、ハディース学イスラーム法学形成のキーパーソンであるブハーリーをはじめ、ムスリム・ブン・ハッジャージュアブー・ダーウード・スィジスターニーと比較しても、膨大なハディースを収集したことで知られている。

ティルミズィーは9つの著作を書いたが、現代まで散佚せず残ったものはそのうちの4つである。『集成』(Jami` at-Tirmidhi)の書名でよく知られる作品は、スンナ派六大伝承書の一書に数えられる、ハディース学において重要な著作である。 al-Ilal という著作は『集成』で採用した方法を開示する内容である。ハディース学における定義の多様性と正確な分類語彙は、ティルミズィーに帰せられるべきである。

ティルミズィーのハディースの提示方法は各ハディースの差異を比較可能に提示するものであって、スンナ派法学は以後、この方法を踏襲することになった[2]。ティルミズィーは不自然にもアブー・ハニーファに言及しておらず、これはティルミズィーがラアイ(個人的見解)を採用することに反対の立場であったことの反映とみられる。ティルミズィーにより法学派間での意見の相違が育っていったともいえる[3]

もう一つのハディース集 al-Shamā’il al-Muhammadiyya では預言者ムハンマド預言者性について紹介する。 Kitāb al-Zuhd あるいは Kitāb al-Asmā’ wa l-Kunā とも呼ばれる。

ハンバル法学派の一部には、ティルミズィーを非常に激しく非難する者もいる。例えば10世紀の法学者アブー・バクル・ハッラールは、ティルミズィーが収録したサハーバ・ムジャーヒド英語版が伝えた預言者のイスラーに関するハディースを拒絶し、ティルミズィーがジャフミーヤ英語版的異端に陥っているとした。

出典

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