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九〇式信号拳銃

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九〇式信号拳銃
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九〇式信号拳銃とは、 大日本帝国で設計・製造された信号拳銃で、大日本帝国海軍に採用された多連式信号拳銃である。九十式信号拳銃[1]海軍二連信号銃/海軍三連信号銃とも呼ばれる。

概要 九〇式信号拳銃, 種類 ...
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開発

1920年代まで、海軍はイギリスのヴィッカース社から輸入した信号拳銃を艦艇や航空機に配備していた[2][3]。ただ、ヴィッカース社の信号拳銃は簡素で扱いも容易だった反面、重く反動が大きいという欠点があった[2][3]

そこで、海軍は萱場製作所、南部銃製作所、東京瓦斯電気工業の3社に日本人の体格にあった信号拳銃の試作を命じ、各社の試作銃を試験した結果、萱場製作所製のものが九〇式信号拳銃として制式採用された[1][3]。萱場工業製が選定されたのは、発射の際銃身が後座しバネで複座させる緩衝機構が組み込まれており、反動が軽減されていた点などが評価されたためであった[1][3]

ただ、開発や採用の経緯については資料によって差異があり、萱場の社史である「風雪と激動の40年 油圧に生き油圧を超えて」および光栄の「日本陸戦兵器名鑑 1937-1945」では、萱場製作所では1920年代末頃に海軍から命じられて2連発と3連発の信号拳銃が試作され、1929年2月に他社の試作銃と比較試験を受けて、ともに1930年(昭和5年、皇紀2590年)に九〇式信号拳銃として採用されたという経緯である一方[1][3]、高橋昇の「日本陸軍の秘められた兵器」では1932年の第一次上海事変後に海軍が国産信号拳銃の開発を計画し、萱場製作所で単発、2連発、3連発の3種が開発されて、それぞれ一型、ニ型、九〇式として採用されたとしている[2]。また、社史では終戦までまったく設計変更がなかったとある一方[3]、高橋は3連発型の銃身切替機構がうまくいかず、1939年頃から研究を始めて1941年になってようやく完成特許出願ができたとしている[2]

2連発型は銃身が水平に2本並んでおり、3連発型は下に2本、上に1本という配置だった[1][3]。選択レバーの操作により、発射する銃身を切り替えることができた[1]

製造はすべて萱場製作所で行われ、2連発型は約10,000丁、3連発型は約5,500丁が製造されたとされる[1]。1丁当たりの価格は220円であった[3]。当時の萱場製作所は年間売り上げが10万から20万円台という時代であり、九〇式信号拳銃は萱場創業期の売り上げの中心製品の一つとして挙げられている[3]

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運用

海軍の航空機や艦船に広く装備された[2]。艦船では主に救難用として使われ、大戦末期には輸送船の緊急連絡用としても使用された[2]。九〇式信号拳銃が使用されたもっとも有名な例は1941年の真珠湾攻撃で、無線封鎖中の攻撃機隊が本銃を使用して攻撃開始と奇襲成功の合図を行っている[1][3]

脚注

出典

  1. 田中義夫 編『日本陸戦兵器名鑑 1937-1945』光栄、2006年10月30日、14頁。ISBN 4-7758-0468-5
  2. 高橋昇『日本陸軍の秘められた兵器』潮書房光人社、2017年4月23日、199-206頁。ISBN 978-4-7698-3001-6
  3. 『風雪と激動の40年 油圧に生き油圧を超えて』萱場工業、1975年12月、15-16頁。doi:10.11501/11951091
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