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外国人司法官任用問題

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外国人司法官任用問題(がいこくじんしほうかんにんようもんだい)または外人法官任用問題(がいじんほうかんにんようもんだい)[注 1]とは、明治期大日本帝国政府が、幕末欧米列強との間で締結された不平等条約改正交渉に際し、在留外国人に対する領事裁判権治外法権)の撤廃と引き換えに、(外国人に対する裁判を担当する)日本の法官(現代で言う司法官裁判官判事検察官・検事)に外国人を任用する内容の交渉を進め、条約調印にまで至っていたことが公になって以降、それが大日本帝国憲法に違反するとの批判から、日本国内で発生した一連の政争テロ事件・その他の騒動[1][2][3][4][5][6]

その交渉を外務大臣として推進した大隈重信が爆弾で暗殺されかける(未遂)、いわゆる大隈遭難事件の発生を招き[1][2][3][4][5][6]、条約は発効に至らなかった。

大隈遭難事件

1889年明治22年)10月18日玄洋社員だった来島恒喜が、この外国人の任用を内容とする条約案に対する抵抗を目的に、この交渉を外務大臣として推進していた大隈重信に対し、爆弾による暗殺を謀り、未遂に終わったものの、大隈が右脚を失う重傷を負い、来島も現場で自刃する、という事件が起こった。歴史的には、大隈遭難大隈遭難事件大隈重信遭難事件など、「遭難」と表現されることが多い。

同日午後4時10分ごろ、大隈は桜田門から霞が関の官邸に帰る途中、外務省表門前で爆弾攻撃を受けた。モーニングコートを着た男(来島恒喜)が右手に蝙蝠傘を下げて馬車に近づき、隠し持った爆弾を投げつけたのである。爆弾は外務省の石柱に当たって破裂し、その破片が馬車上の大隈の右足のくるぶしおよび脛骨を粉砕し、さらに膝関節の内側を破壊した。大隈は重傷を負い歩行不能となり、玄関番らの助けで室内へ搬送された[7]。 犯人の来島はその場で匕首により喉を突いて自決した。懐には何もなく、ただ写真師丸木利陽の受取証1枚が残されていた。衣類は紺の綾羅紗コートに茶の弁慶縞のズボンであったという[7]

爆発の直後、通りかかった高木海軍軍医が異変を察して大臣官邸に入り、応急検査を行い弾片を摘出した。やがて明治天皇からは毛利侍従、皇后からは三宮皇后亮が見舞いのため派遣され、在京各国の公使も見舞いに訪れたため、霞が関一帯は騒然とした。東京軽罪裁判所の渥美・安藤両検事らは現場で来島の死体を検証し、遺体は警視庁に送られた[7]

大隈の容体は深刻であり、夜10時ごろ右脚を膝上数センチの位置で切断する手術が行われた。執刀は佐藤進橋本綱常が担当し、池田謙斎高木兼寛伊東方成らも立ち会った。手術中の出血は少なく、動脈を外れていたため神経衰弱には陥らなかったとされる。傷口は足首から膝口にかけて糜爛し、「ザクロの開きしに似たり」と伝えられるほどであった。手術後の熱は高くはなかったものの、大隈は相当の苦痛を示したという[7]

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参考文献

  • 『日本のテロリスト:暗殺とクーデターの歴史』(1962年、弘文堂)

脚注

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