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山﨑隆夫 (洋画家)

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山﨑 隆夫(やまざき たかお、1905年〈明治38年〉 -1991年〈平成3年〉)は、日本の洋画家、広告制作者[1]

同姓同名の日本画家とは別人。戦前に洋画家・小出楢重に師事し、戦後は抽象絵画を手がける一方、広告分野においても活動した。2025年には芦屋市立美術博物館で回顧展が開催された[1]

略歴

大阪に生まれる。幼少期より神戸で暮らす。神戸高等商業学校(現・神戸大学)に在学中、前田藤四郎、井上覺造らと美術グループ・青猫社を結成。この時期に芦屋在住の洋画家・小出楢重に師事する。卒業後は三和銀行に勤めながら画業に励む。1931年に小出が没すると林重義に学び、独立美術協会展や文展に出品。1943年、国画会会員となる。戦後は芦屋市美術協会の結成や現代美術懇談会(ゲンビ)に参加し、洋画家として活動を続けた[2]

画家としての活動と並行して三和銀行の広報業務を担当し、菅井汲吉原治良ら芸術家を起用した広告を制作。こうした実績から1954年に寿屋(現・サントリー)の佐治敬三に招かれ、イラストレーターの柳原良平とともに寿屋へ入社、宣伝部長に就任した。コピーライターの開高健山口瞳、アートディレクターの坂根進らとともに「トリスウイスキー」広告やPR誌『洋酒天国』[3]の刊行に携わり、洋酒文化の普及に寄与した。その後、1964年に広告制作会社サン・アドを創立し社長に就任。晩年は神奈川県茅ヶ崎市に居を構え、亡くなるまで絵画制作に取り組んだ。

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作風

初期には具象的な静物画や風景画を描いたが、戦後は直線や曲線を用いた幾何学的構成による抽象画に移行した。特に富士をモチーフとした作品では、雄大な自然を抽象的かつモダンな感覚で表現した[4]

評価

戦前から戦後にかけての具象作品は阪神間モダニズムの潮流を反映し、戦後の抽象作品は日本の抽象絵画の一断面を示すものとされる。広告分野では、三和銀行、寿屋(現・サントリー)、サン・アドを通じて戦後日本の商業デザイン黎明期を担った[5]

画業

戦前は独立美術協会展や文展を舞台に活動した。

  • 1932年:第2回独立美術協会展に「新聞紙の広がる卓上」で初入選。以降、連続入選。
  • 1936年:第10回全関西洋画展で「卓上植物」がJ.I氏賞を受賞。
  • 1938年:国画会奨励賞受賞、文展入選。神戸鯉川筋画廊で初個展を開催。
  • 1939年:再び国画会奨励賞受賞。
  • 1940年:国画会同人に推挙。1943年には国画会会員となり、同年の文展で無鑑査に推薦された。

戦後も国画会を中心に出品を続けた。

  • 1962年:東洋信託銀行本店(現大阪支店)の壁画制作。
  • 1966年~1989年:関西国画会展に23年間連続出品。
  • 1970年代以降:富士を題材とする抽象作品シリーズ(「天地の分かれ」「凱風」「当世赤富士」など)を展開。自然を幾何学的構成によって表現する独自の作風を深化させた。
  • 晩年には回顧的個展も数多く開催され、1991年には作品集『山﨑隆夫作品集 ― 漂えど沈まず』を刊行した。[6]
  • 2025年:芦屋市立美術博物館で回顧展が開催された。[7]
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広告制作

  • 三和銀行広報部にて社内広報物と広告を制作。
  • 三和銀行時代に手掛けた広告制作事例のひとつとして、女優・高峰秀子を起用したポスターがある。山﨑は黒背景に笑顔を見せない高峰を依頼し、印刷には黒インクを9回重ねる技法が採られたとされる。[8]
  • サントリー宣伝部において広告制作、広告キャンペーンを担当。
  • サン・アド創設期に参加し、初代社長に就任。クリエイティブディレクション、アートディレクションを担った。
  • 1970年大阪万博におけるサントリー館の展示館プロデューサーを務めた。山﨑は外観を竹を斜めに切った形をモチーフにし、生命力と水の循環を象徴した[9]

展覧会

  • 芦屋市立美術博物館特別展「山崎隆夫 その行路 ―ある画家/広告制作者の独白」(2025年)[10]

関連施設

山﨑は師事していた小出楢重の逝去後、1937年に小出のアトリエを引き継ぎ、1962年まで居住・制作を続けた。建築家・笹川慎一設計による小出のアトリエは1927年竣工、建坪11.5坪、吹き抜けと中二階をもつ設計であったとされる。のちにこのアトリエは山﨑の寄贈により、現在は芦屋市立美術博物館の敷地内に復元・保存されている[11]

関連人物

  • 山﨑の息子・一夫は、サントリーに勤務し宣伝部長・サントリーホール設立準備室長・文化事業部次長を歴任した。[12][13]
  • 一夫の妻・小割まさ江は、1950年代より活躍したジャズ歌手である。
  • 詩人の高橋睦郎は、コピーライターとして活動していた時期に小割まさ江の歌う曲の日本語訳を担当した縁から一夫と知り合い、サン・アドのアートディレクター・坂根進を紹介されたことをきっかけに、同社に入社したという逸話がある。[14]

脚注

参考文献

外部リンク

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