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福岡貰い子殺人事件
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事件
要約
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柴田與三郎
柴田の生い立ち
38歳の時に流産によって死去した妻との間に息子2人と娘1人がいた[1]、若い頃は村の衛生組長を勤め、その後に家業の農業を水車業に切り替えた[5]1時は成功したが約8年後に失敗し、多くの負債によって生活に困窮した[5]、子供との生活は厳しく長女と長男を奉公へ出し、次男を実兄へ預け、與三郎は従弟である柴田金吾と同居して生活するようになった[5]。生活に困窮していたのにもかかわらず毎日酒を飲み、近隣者とも関わることがなかった[5]。與三郎は過去に長崎市外の天主教会の育児院に他人の嬰児を預けたことがあり[2]、その経験から恵まれない子を持つ親に話しかけて、養育費を添えて育児院に預けると伝え、他人から養育費を騙し取り受け取った嬰児を殺害すれば、儲けることが出来ると考え、犯行の計画を立てた[2]。
連続殺人事件
與三郎はかつて天主教会の育児院に他人の嬰児を預けた事があり、その経験から不義の子を持つ親などに話しかけ嬰児の養育費を添えて「育児院に預ける」という名目を立て、「養育費を受け取った後に嬰児を殺してしまえばただ儲けになると考え犯行を計画し犯行に及ぶようになった。
主な殺人
與三郎の逮捕、そして処刑
やがて與三郎は殺害することに興味を覚え初め[3]、貰い子を受け取った後に昼夜問わず、鶏の首を捻る感覚で幼児を殺害しては、林の中や谷底に遺棄し、素知らぬ顔で世間に接していた[3]。善五郎の子の首を捻って殺害しようとした時は突然泣き出したため、與三郎は焦り、懐から反古紙を取り出して反古紙を咽喉に押し込んで殺害した[3]。その後に善五郎の子の遺体を遺棄して帰宅したが、数日後に善五郎の子の遺体が山中で発見され、検死の結果、殺害するために咽喉に押し込まれた反古紙が見つかり、與三郎は検挙された[3]。與三郎は取り調べである時に山中で貰い子を殺害した時に、谷底に投げ込もうとしたが人が登って来たため、投げ込むのを断念し、弁当を腰に結び付けている様に見えるようにするため、遺体を逆さまにして、両足を自分の兵児帯に挿しこみ、マントの下に隠し、登山者と世間話を30分くらいして何喰わぬ顔で別れた事を自白し係官を震え上がらせた[3]。この行為に当時の世間は激怒した[3]。また冬に生後2ヶ月の貰い子を受けて帰る時には、寒さと空腹のために貰い子は泣き始め、與三郎は生きたまま風呂敷に貰い子を包み、貰い子をぶら下げて歩いた[3]、その後に泣き止んだため、風呂敷を開けてみると、貰い子は死亡していた[3][6]。投獄後、與三郎は容疑を否認したが、問い詰められると自白した、裁判では「誠にすまなかった」の一点張り、[6]死刑が宣告された時には全く驚いた様子もなかったと言われている[6]。公判廷では「妻を亡ってからは、せめて世の中の内証子を助けたら、いくらか善行功徳になると思って、嬰児を周旋をすることにした」と述べ、裁判官を驚かせた [6]、1917年12月19日午前6時12分、與三郎は死刑を執行され、13分後に死亡した(54歳没)[6][1]。與三郎の死後、彼のデスマスクが作成された[2]。
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関連項目
脚注
外部リンク
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