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船橋小学校爆弾騒ぎ
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船橋小学校爆弾騒ぎ(ふなばししょうがっこうばくだんさわぎ)は、大正12年(1923年)、関東大震災直後に、千葉県船橋町(現・船橋市)の船橋小学校に設けられた罹災者収容所で発生した「爆弾所持事件」をめぐる騒動である。実際には砲丸の模型を爆弾と誤認したものであったが、「朝鮮人が爆弾を持っていた」という噂が地域に広まり、船橋における朝鮮人虐殺の原因の一つとなった[1]。
概要
1923年9月1日の関東大震災後、東京から多くの罹災者が千葉へ避難した。船橋小学校は臨時休校となり、校舎を「東京罹災民収容所」として開放した。職員や地元医師、他校教員が協力して徹夜で救護にあたり、傷病者治療や出産まで対応した。地域町村から食料が寄贈され、町全体をあげての救援活動が続いた。収容は9月8日に新規受け入れを打ち切り、9月15日に閉鎖された [2]。
学校日誌の記録
船橋小学校の日誌には、9月3日の出来事として次のように記されている。
九月三日 月曜日 晴後雨 本日収容受付数 三四六名 退去者数 二三六名 傷病者治療のため看護婦三名来校 其他、前日に同じ 夕刻、体操場に収容中の避難朝鮮人七名中、爆弾を所持せるものあるを発見、直ちに警察署に引き渡す。出産者一名、男子出生(「学」と命名す)
(原文ママ)[3]。
回想
当時船橋警察に勤務していた渡辺良雄(後の船橋警察署長)は、「関東大震災の追憶」の中で、「避難所を掃除していた小学校の用務員が、黒焦げになった砲丸型の物体を発見し警察署に持参した。職員らは爆発物に関する知識が乏しかったため「てっきり爆弾と思い込み、危ないから近寄るな」と指示し、大騒ぎとなった」と語っている[4]。
関係者である朝鮮人は連行される際に校内の自警団から暴行を受け、渡辺自身も「夏の白服が血で真っ赤になった」と記すが、治療によって命は取り留めた。最終的に砲兵隊の鑑定で、それが「単なる砲丸の模型」であることが判明し、爆弾ではなかったことが確認された。
影響
しかし、誤認の事実は学校側に伝わらなかったとみられ、日誌にも訂正はない。10月21日の「東京日日新聞」にも「船橋小学校に避難した東京罹災者中に爆弾を所持していた一朝鮮人を加瀬校長が発見した」との記事が掲載され、爆弾騒ぎは否定されないまま報じられた。そのため「朝鮮人が爆弾を持っていた」という情報がデマとして船橋や周辺地域に広まり、千葉広域の朝鮮人虐殺につながったとされている[5]。
参考文献
- 『いわれなく殺された人びと:関東大震災と朝鮮人』(1983年、青木書店、29-33p)
脚注
外部リンク
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