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藤岡市市民体育館
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藤岡市市民体育館(ふじおかししみんたいいくかん)は、群馬県藤岡市にあるスポーツ施設。庚申山総合公園内に位置する。
概要
要約
視点

初代市民体育館は現体育館から約1.5 km離れた場所[1](藤岡市中心部)にあり[2]、1971年度(昭和46年度)・1972年度(昭和47年度)の継続事業として、総額1億2936万円を投じて建設された[3]。1985年(昭和60年)8月14日以降[4]、日本航空123便墜落事故(同月12日発生)の身元不明の犠牲者の身元確認作業などに用いられ[2]、最大で254の棺が安置された[4]。
→詳細は「日本航空123便墜落事故 § 検視、身元確認作業」を参照
市民体育館のほか、市内の3高校の体育館も遺体の身元確認所として用いられ[5]、市民体育館では10月5日まで安置されていた未確認の部分遺体29棺が出棺し、合同火葬されるまで[6]、事故発生から53日間にわたって遺体の確認作業が行われた[1]。その後、業者による清掃、消毒、脱臭作業が行われ、同月14日まで密封された[4]。当初は高校体育館とともに床の張り替え、消毒などの復旧作業を行った上で、同年11月始めから平常使用を再開する見込みと報じられていたが[5]、同年10月27日時点では床の傷みが酷く、同年中の使用は不可能とみられると報じられていた[4]。しかし、実際には出棺式終了後も市民からの利用申し込みはなく、駐車場が使われているのみで[3]、2か月近くにわたって遺体が安置されていたことから、同年12月時点でも悪臭が残っていたという[7]。市民からは「建て替えなければ使用したくない」という声が複数上がっていたため、市は体育館を建て替えることを決断、同年11月18日には日本航空(日航)に要請書を提出した[3]。当時、体育館は1972年の建設以来老朽化が進んでいたこと、また利用者が増加したことで手狭になり、建て替えが検討されていた一方、藤岡市は財政難の中にあり、初代体育館の建設時の負債も残っていたという[8]。
この体育館建て替え問題にあたっては、市が日航に対し、当時約7億円と試算された建て替え費用のうち5億円の負担を請求したと報じられ、市民からは原因者である日航に援助を求めることはやむを得ないとする肯定的な意見が上がった一方、遺体確認作業や遺族の世話にボランティアとして奉仕した市民からは「上州人の心意気に水さすもの」と否定的な声も上がっていたが[8]、最終的には建て替えの方針が決まり、1986年(昭和61年)9月に解体された[9]。新体育館については、いったんは旧体育館と同じ場所に再建することが決まり[10][11]、その規模は3340 m2の2階建て(1階2400 m2+2階940 m2)の規模と想定された[12]。その後の「市民体育館建設検討会」で、規模は床面積3678 m2とする方針が出されたが、後に同地は狭く、大型バスが入れないことが問題視されたのに加え[13]、藤岡市と群馬県が協議したところ、公園事業として市内の庚申山総合公園内に体育館を建設すれば[14]、公園内体育施設とみなされ[13]、国庫補助金と起債で建設費を賄うことができることが判明した[14]。また新体育館は初代体育館よりスペースを広くすることでスポーツ関係者の要望に対応し、文化関係者の意見は初代体育館跡地に市民ホールを建設することで反映できると判断されたことから[13]、同公園内の第二駐車場付近に新体育館を建設する案が浮上した[14]。最終的には2か年事業で同地に新体育館を建設することが決まり[15]、新体育館は1988年(昭和63年)3月27日に開館した[2]。総工費は13億円で[2]、財源は国庫補助金約3億5000万円+起債約5億5000万円(以上はいずれも予算案成立当時の試算額)[16]、そして日航の負担した3億5000万円である[1][17]。この金額の根拠として、日航側は身元確認作業などで傷んだ体育館の原状回復費用、体育館が利用できなかったことで中止となった各種行事への補償、そして「世話になった市民へのお礼」の3点を挙げている[18]。1階は武道場(柔道場・剣道場)とトレーニングルームなど、2階はバレーボールのコート3面を有した大体育室[15]、3階は1周約200 mのランニングコース[15]と500人分の観客席という構成になっており、開館時は県内最大級の体育館と称された[2]。指定管理者は西上州ファシリティーズ。
なお、旧体育館の跡地には藤岡市民ホールが建設され、1987年(昭和62年)7月1日に完成した[17]。同ホールは小体育館を兼ね[13][19]、収容人数約800人の中規模ホールで、式典や芸術文化活動の発表などに用いられてきたが、老朽化や2025年(令和7年)秋に開館する複合施設内の多目的ホールなどと役割が重複することから、2025年9月末で閉館する方針が決まっている[20]。また、旧体育館跡の脇には御影石製の記念碑「日航機墜落事故遭難者遺体安置場所の碑」(高さ2.5 m、幅1.2 m)が建立され[9]、1986年(昭和61年)8月20日に除幕された[1]。この記念碑は、遺体確認作業や遺族の世話をしたボランティアの市民、医師会、歯科医師会員らが拠出した約150万円で建立されている[1]。
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設備
現体育館は鉄骨鉄筋コンクリート造の3階建て、床面積6408 m2で[15]、初代体育館の約2.5倍の広さである[16]。
アリーナ部分
競技場は2階にあり、ステージ付きの48m×36mである[15]。
その他
1階に柔道場・剣道場、トレーニング室、小体育室が[13]、3階にランニングコースと観客席がある[16]。3階の中央は吹き抜けになっている[15]。
- 1階:武道場1(畳敷、310m2)
- 1階:武道場2(板敷、475m2)
- 1階:トレーニングルーム:220m2
- 小体育室:264m2
- 3階:ランニングコース(1周約200 m)[16]
- 3階:観客席(約500人分)
初代体育館
移転建て替え前の初代体育館の延べ床面積は2538 m2だった[13][15]。鉄筋コンクリート造で、床面積は約1700 m2(東西44 m×南北43 m)で、天井は吹き抜けになっており、東側中央部の正面玄関近くにホール、競技場の西側突き当たりにステージがあり、2階の南北両側が観覧席になっていた[22]。また玄関ホールの左右に管理室、トレーニングルームが、球技場の周囲にも控室6室、器具室2室があり、2階には2室更衣室があった[23]。トイレは1階に3箇所、2階に2箇所あった[24]。
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交通アクセス
イベント
Bリーグに所属する群馬クレインサンダーズのアリーナの一つとして使用されている[28]。
脚注
外部リンク
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