アフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジー
ウィキペディア フリーな encyclopedia
アフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジー(アラビア語: أحمد بن إبراهيم ال غازي, Ahmad ibn Ibrihim al-Ghazi, 1507年頃 - 1543年2月21日[1])は、現在のエチオピア東部からソマリア北西部にあった「アダル・スルタン国」のイマームで将軍。アダル・スルタン国を乗っ取り、さらにはオスマン帝国の助けを借りて隣国のエチオピア軍を破り[1]、一時期エチオピア高原を支配下に置いた。まもなくポルトガルの援助を受けたエチオピア軍の反撃を受け、1543年に戦死。
概要 Ahmad ibn Ibrihim al-Ghazi أحمد بن إبراهيم ال غازي, 生年 ...
Ahmad ibn Ibrihim al-Ghazi أحمد بن إبراهيم ال غازي | |
---|---|
ソマリアの首都モガディシュに置かれたアル=ガジーの像 | |
生年 | 1507年 |
没年 | 1543年2月21日 |
信教 | イスラーム教 |
テンプレートを表示 |
閉じる
「ガジー」は「戦う者」を意味するアラビア語であり、名の意味は「異教徒と戦う者、イブリヒムの息子アフマド」である。アフマドはソマリ人だったともオロモ人だったとも言われているが、その部下のほとんどはソマリ人であった[2]。アフマドは「左利き」の渾名を持っており、ソマリ語でグレイ(Gurey)、アムハラ語でグラン(ግራኝ Graññ)と呼ばれた。