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ノルウェーの作曲家 ウィキペディアから
エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ(Edvard Hagerup Grieg [1]、1843年6月15日 - 1907年9月4日) は、ノルウェーの作曲家である。現地語での発音は「グリッグ」に近い。また語末のgが無声化してしばしば/k/と発音されるドイツ語読みの影響で「グリーク」と表記されることもある。
グリーグはノルウェーの民族音楽から着想を得て、国民楽派の作曲家として注目された[2]。民族音楽からの深い影響は『ペール・ギュント』第1組曲の第1曲「朝」の冒頭がノルウェーの民族楽器であるハリングフェーレの共鳴弦を端からつま弾いた時の旋律から始まっていることからもうかがうことができる。グリーグの肖像は、旧500クローネ紙幣に描かれていた。
スウェーデン統治下のノルウェーで、ベルゲン市街の家に5人兄弟の第4子(兄1人、姉2人、妹1人)として生まれた。父方の曾祖父アレクサンダーは1779年にノルウェーに帰化したアバディーンシャー出身のスコットランド人で、一族の苗字は本来Greig(グレッグ)であった。
1858年、ヴァイオリニストのオーレ・ブルに才能を見出され、3年半の間ライプツィヒ音楽院で作曲とピアノを学ぶ。
1863年から3年間、デンマークのコペンハーゲンに居住し、作曲家ニルス・ゲーゼに学んだ。ここで、交響曲(作品番号なし)、ピアノ・ソナタ(作品7)、ヴァイオリン・ソナタ第1番(作品8)など初期の作品が作られた。また、従妹でソプラノ歌手のニーナ・ハーゲルップ(Nina Hagerup, 1845年 - 1935年)と出会い、1867年に結婚した。後の歌曲は、ほとんどニーナのために作曲された。
1867年には、クリスチャニア(現オスロ)のフィルハーモニー協会の指揮者に就任し、民謡蒐集家リンネマンや、国民的詩人ビョルンソンと親交を持つ。『十字軍の王シーグル』のための劇音楽が作曲され、グリーグの重要な作品である『抒情小曲集』の第1集を出版した。
1877年から1880年まで、ベルゲン東方のハダンゲル(ハルダンゲル)地方に住んだ。次第に、民族音楽、民族楽器へ傾倒していく。
1884年にベルゲン近郊のトロールハウゲン(妖精の丘)に住家を建築、ベルゲン出身でデンマークにて活躍した劇作家ルズヴィ・ホルベアの生誕200年のためにピアノ組曲『ホルベアの時代から』(翌1885年に弦楽合奏に編曲)を作る。
1901年、次第に健康状態が悪化する。『抒情小曲集』第10集を出版する。1903年パリに赴き、ピアニストのラウル・プーニョに誘われ、グラモフォン社にレコードを数曲の自作曲を録音した。プーニョが誘わなければ、此の巨匠の自作自演が聴くことが叶わない事になる処であった。 1905年のノルウェー独立を見届けた、1906年再びパリにてグラモフォン社のレコードに録音を行い全9曲の自作自演のレコードを録音した。1907年、心不全のためベルゲン市内の病院で死去 (満64歳没)したため、レコードの録音や、自動ピアノの録音は、やっと間にあったと云われて居る。下記にその一例が有るので、聴いて頂くとよい。
兄ヨーンも、ライプツィヒ音楽院で学び、チェロを演奏したが、職業的音楽家にはならなかった。兄のために作曲したチェロ・ソナタがある。
グリーグはとても小柄であった。生前は卓越したテクニックのピアニストとしても著名で、自作を携えヨーロッパをたびたび演奏旅行している。晩年にパリに出掛けた時に、ピアニストのラウル・プーニョに誘われ、グラモフォン社のSP盤アコースティック録音に録音した他自動ピアノのピアノロールが残されており、SP盤の復刻した物と自動ピアノを録音した物が、現在もCDで入手できる。オリジナルのSP盤[3]は、中古レコード店や、オークションで、高額な骨董レコードとして、取り引きされている。
生地であるノルウェーの旧首都ベルゲンの自然と海をこよなく愛した。死後に火葬され、遺言によりトロールハウゲンの住居の下にある湖を望む岩壁に墓が設けられ、一部の遺灰は湖に撒かれた。
なお、作品番号の付されていない習作である交響曲は、同じノルウェーの作曲家ヨハン・スヴェンセンの交響曲を聴いて封印したというエピソードがある。
グリーグは終世、手のひらに乗るぐらいの小さな蛙の置物や子豚のぬいぐるみを大切にし、寝る時も一緒だったらしい。演奏会の時は、あがらないように、ポケットの中で蛙の置物をそっと握りしめたそうである。なお、この蛙の置物と子豚のぬいぐるみはグリーグの家(現在のエドヴァルド・グリーグ博物館)に展示されている。
グリーグはピアノのために数多くの小品を作曲しており、「北欧のショパン」と呼ばれることがある。また、ピアノとヴァイオリンのために3曲のソナタを書いた。
数あるグリーグの作品の中で、ヘンリク・イプセンの戯曲『ペール・ギュント』への付随音楽と、ピアノ協奏曲イ短調が日本において最も有名である。
しかし、グリーグの本領は、『抒情小曲集』と多数の歌曲に代表される小品に遺憾なく発揮されている。ピアノ曲や歌曲を管弦楽や弦楽合奏に編曲した作品も多い。
ヘンリック・イプセンは戯曲『ペール・ギュント』を1867年に書き上げていた。グリーグ31歳の1874年、イプセンはグリーグに付随音楽の作曲を依頼する。当初グリーグはペール・ギュントの冒険物語にやや困惑し、最も音楽的ではないものに作曲しなければならない、とこぼしていたという。そんなある日、イプセンから「音楽に関してグリーグの芸術的な自由を保障する。」という手紙が届く。これを意気に感じたグリーグは、生まれ故郷のベルゲン近くの湖畔に小屋を借りて作曲に専念する。1876年、2月24日。ペールギュントはクリスチャニア(現在のオスロ)劇場で初演を迎え、大喝采を受ける。その後、パリやコペンハーゲンなどで上演され、グリーグの名声はヨーロッパに響き渡る。グリーグは上演されるたびに音楽を改訂し手直しを加えていった。そして、この劇音楽の中から8曲を編曲し、オーケストラ用の2つの組曲にした。なお、現在最も親しまれている「朝」は、ノルウェーではなく、主人公ペール・ギュントが故郷を離れてモロッコに渡り、アメリカとの奴隷貿易などで大儲けをした話をする場面の前奏曲として使われている。
グリーグのピアノ協奏曲は「悲劇」をイメージさせるBGMとして、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」やバッハの「トッカータとフーガ ニ短調」などと共によく利用され、作曲家や曲名がわからなくても曲を聴けば誰でも聴いたことがあるという代表曲である。なお、グリーグはピアノ協奏曲について、40年間に300回以上の改訂を行っている。
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