カセリーヌ峠の戦い
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カセリーヌ峠の戦い(カセリーヌとうげのたたかい、英: Battle of the Kasserine Pass)は、第二次世界大戦中、チュニジアで行われた戦いであり、カセリーヌ峠(チュニジアを中部から西部へそびえるアトラス山脈にある幅2kmの隙間であった)の周辺で行われた一連の戦いを含んでいる。
概要 カセリーヌ峠の戦い, 交戦勢力 ...
カセリーヌ峠の戦い | |
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カセリーヌ峠を進むアメリカ軍 | |
戦争:第二次世界大戦(チュニジア戦線) | |
年月日:1943年2月19日〜2月25日 | |
場所:チュニジア、カセリーヌ峠 | |
結果:枢軸軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
ドイツ国 イタリア王国 |
イギリス アメリカ合衆国 自由フランス |
指導者・指揮官 | |
エルヴィン・ロンメル | ケニス・アンダーソン ロイド・フリーデンダール |
戦力 | |
22,000 | 30,000 |
損害 | |
戦死者2,000 戦車34両 |
戦死300[1] 戦傷3,000[2] 捕虜または行方不明3,000[3] 戦車183両[4] トラック705台[5] |
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この戦いに参加した枢軸軍はナチス・ドイツ元帥エルヴィン・ロンメルに率いられたドイツ・イタリア装甲軍とドイツ第5装甲軍(2個師団)であった。対する連合軍はイギリス第1軍(司令官ケニス・アンダーソン中将、Kenneth Anderson)であったが、大部分がアメリカ軍第II軍団(司令官ロイド・フリーデンダール少将、Lloyd Fredendall)であった。
この戦いは第二次世界大戦における初のドイツとアメリカの激突であったが、経験不足であったアメリカ軍は多数の損害を被り、総崩れとなってファイド峠(Faid Pass)の西、80kmまで押し戻された。このため、アメリカ軍は小規模部隊の指揮官まで入れ替えるなどの大規模な対策を行った。そのため、アメリカ軍がその数週間後にドイツ軍と再戦した時、アメリカ軍はより効率的に行動することが可能となっていた。