コントゥムの戦い
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コントゥムの戦い(コントゥムのたたかい、越: trận Kontum、英: Battle of Kontum)への準備は、1971年半ばに始まった。北ベトナムは、ラムソン719作戦での勝利が、戦争を迅速に終わらせることができる大規模な通常攻撃の時が来たことを示していると判断したときであった。結果として1972年春に計画された攻勢は、南部ではイースター攻勢(英語版)、北部ではグエン・フエ攻勢として知られ、グエン・フエは1789年の中国に対するベトナム人の抵抗の英雄となった。イースター攻勢は14個師団を使用し、この戦争で最大のものとなる。[1]
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1972年のイースター攻勢/グエンフエ作戦は、3万人のベトナム人民軍(PAVN)兵士と100両以上の戦車による非武装地帯への大規模な攻撃で始まった。その後、サイゴン方面、中部高原と州都コントゥムへの2回にわたる同規模の攻撃が開始された。北ベトナムは、コントゥムと中部高原を攻略すれば、南ベトナムを真っ二つにできると考えていた。
コントゥムの戦いは、ゴー・ドゥ中将(後にグエン・バン・トアン中将)率いるベトナム共和国軍第22・23師団と、ホアン・ミン・タオ中将率いるベトナム国軍第320・2師団、B-3戦線第3師団の戦闘部隊、および現地ベトコンの3師団が対峙するものであった。
このような全面的な攻撃が成功すると北ベトナムを説得した要因は2つある。まず、ニクソン大統領のベトナム化政策により、中部高原には米軍の師団部隊がなく、顧問と7/17航空騎兵隊のヘリコプター部隊を含む米軍航空部隊のみであったことだ。この年の6月にはベトナム全土に5万人弱の米軍がいた。
第二に、北ベトナムは春季攻勢の前にソ連と中国を説得し、PT-76、T-34-85、T-54、59式戦車400両を提供させた。