ジャアファル・サーディク
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ジャアファル・アッ=サーディク(アラビア語: جعفر الصادق, 702年4月20日 - 765年12月13日[1])、全名アブー・アブドゥッラー・ジャアファル・イブン・ムハンマド・イブン・アリー・イブン・フサイン・アッ=サーディクは、シーア派・イマーム派の第6代イマーム。アッ=サーディクとは「信に値する者」の意。
概要 ジャアファル・サーディク, 生誕 ...
ジャアファル・サーディク | |
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書道 ジャアファル・サーディク | |
生誕 |
702年4月20日 ヒジャーズ マディーナ |
死没 |
765年12月13日 ヒジャーズ マディーナ ジャンナトゥル・バキー墓地 |
死因 | 毒 |
著名な実績 | シーア派の6番目のイマーム。 イスラム教の預言者ムハンマドの家族から。 |
後任者 | ムーサー・カーズィム |
子供 | ムーサー・カーズィム+9 |
親 |
ムハンマド・バーキル(父親) ええと、ファーワー(母親) |
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クーファの街を拠点に活動し、神学者・法学者としても著名。ジャアファル・アッ=サーディクの法判断はのちのシーア派法学においてジャアファル法学派の基礎となっており、イマーム派シーア派の教義を確立したイマームといってよい。しかしジャアファル・アッ=サーディクの名声はシーア派内に留まるものではなく、信頼性の非常に高いハディースの伝承者として、また学問全般に対する貢献からスンナ派のあいだでも高い崇敬を受けた。
またジャアファル・アッ=サーディクの後継をめぐって、のちに主流派となる12イマーム派と今日のアーガー・ハーンの家系に連なるイスマーイール派との分裂がおこっている。