ニムルドの王妃の墓
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ニムルドの王妃の墓(ニムルドのおうひのはか、Queens' Tombs at Nimrud)は古代メソポタミア地方にあったアッシリアの都市ニムルドの遺跡でムザヒム・フセイン(Muzahim Hussein)によって発見された4基の墓である。かつて新アッシリア帝国の首都であったニムルド(『旧約聖書』の名前Calah、および古代名Kalhuからカルフとも呼ばれる[1])は現在の北部イラク、ティグリス川の東岸に位置していた。ニムルドは前9世紀にアッシュル・ナツィルパル2世の下でアッシリア帝国の2つ目の首都となった[2][3]。アッシュル・ナツィルパル2世はニムルド市を拡張し、アッシリアにおける最も重要な建築的業績の1つである北西宮殿(bētānu)をこの街に建設した。この宮殿は、新アッシリア帝国の王たちが建設した宮殿の中でも最初のものであり、後の宮殿のひな形となった[2]。1988年に北西宮殿で行われていた発掘調査において、宮殿の南部の内翼(domestic wing[訳語疑問点])から複数の王妃の墓が発見された[3]。発見された4つの墓すべてが前9世紀と前8世紀のものであり、主として泥レンガ、焼成レンガ、石灰岩で作られていた[3]。これらはメソポタミアの建築において一般的な部材である[4]。王妃の墓およびそれを内包する北西宮殿の建築から、アッシリア帝国の建築技術についての歴史学的な知識が得られている。王妃の墓から発見された最も特筆すべき品々として数百点の装身具、陶器、衣服、粘土板などが挙げられる。新アッシリア帝国の職人が造り上げたこれらの製品により、考古学者は新アッシリア帝国の金細工技術について知ることができる[5]。それぞれの墓は埋葬されるべき王妃が死去する前から建設が始められた。王妃の墓の建設活動はアッシュル・ナツィルパル2世治世下の前9世紀に始まり、シャルマネセル3世の治世まで続いた[6]。