フィリピンの歴史 (1986年-現在)
フィリピンの現在の政治体制 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
この記事はフィリピン第5共和国として知られる1986年のエドゥサ革命以降のフィリピンの歴史を扱っている。
フィリピン第5共和国 Ikalimáng Republika ng Pilipinas Fifth Republic of the Philippines | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
| |||||||
標語: Maka-Diyos, Maka-tao, Makakalikasan at Makabansa (For God, People, Nature, and Country、神と人民、自然、国土のために) | |||||||
国歌: Lupang Hinirang Chosen Land 最愛の地 | |||||||
ASEAN(灰色)におけるフィリピンの(緑色)位置 | |||||||
首都 |
マニラ 北緯14度35分 東経120度58分 | ||||||
公用語 | |||||||
予備言語 | |||||||
統治体制 | 単一大統領制共和制 | ||||||
• 大統領 | ロドリゴ・ドゥテルテ | ||||||
• 副大統領 | レニー・ロブレド | ||||||
立法府 | 国会 | ||||||
• 上院 | 元老院 | ||||||
• 下院 | 代議院 | ||||||
設立 | |||||||
• 現行憲法 | 1987年2月2日(37年前) | ||||||
通貨 | ペソ(フィリピン語:ピソ)(₱)(PHP) | ||||||
|
フィリピンの歴史 | |||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
この記事はシリーズの一部です。 | |||||||||||||||||||||||||||||
先史時代(900年以前)
| |||||||||||||||||||||||||||||
植民地時代(1565年 - 1946年)
| |||||||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||||||||||
フィリピン ポータル |
1986年に始まる民主主義の回復と政府の改革は、財政赤字や政府の汚職、クーデター計画(英語版)、ドニャ・パス号、持続する共産主義者の反乱(英語版)[1]、モロ分離主義者との軍事衝突に阻止された[2]。コラソン・アキノ時代に米軍基地拡張条約(英語版)の拒絶により[3][4]1991年11月のクラーク空軍基地返還と1992年12月のフィリピン政府へのスービック湾返還へと[5][6]つながりながらアメリカ合衆国軍はフィリピンから撤退した。アキノ政権は1991年のピナツボ山の噴火(英語版)などの一連の自然災害にも直面した[7][8]。大統領の任期を1期に制限する憲法が施行されると、アキノは再選を目指さなかった[要出典]。アキノの後任は、フィデル・ラモスであった。この時期フィリピンの経済実績は、GDP成長比率にして3.6%という控えめな数値であった[9][10]。1996年のモロ民族解放戦線との平和合意のような政治的安定と経済改革は[11]、アジア通貨危機の開始により陰りを見せた[12][13]。
ラモスの後任ジョセフ・エストラーダは1998年6月に就任し、任期中に経済は1999年までに-0.6%の成長率から3.4%に回復した[14][15][16]。政府は2000年3月にモロ・イスラム解放戦線との戦争を発表し、本部などの反乱軍基地を攻撃した[17][18]。アブ・サヤフとの継続中の騒乱や[19]汚職容疑での起訴、行き詰まった弾劾(英語版)のさなかにエストラーダは2001年エドゥサ革命(英語版)で解任され、2001年1月20日に副大統領グロリア・アロヨが引き継いだ[20]。
9年間のアロヨ政権で経済は4-7%の割合で成長し、2002年から2007年の平均は、5.33%であり[要出典]、グレート・リセッションではリセッションにならなかった[21]。その統治は汚職や2004年大統領選挙(英語版)での投票の改竄があった疑いに適用されるハロー・ガルシ・スキャンダル(英語版)のような政治的醜聞で汚された[22][23][24][25]。2009年11月23日、34人の記者と数人の市民がマギンダナオで虐殺された(英語版)[26][27]。
ベニグノ・アキノ3世は2010年国政選挙(英語版)で当選し、第15代(英語版)フィリピン大統領として勤めた[28]。バンサモロ自治地域と名付けた自治政体を創造する第一段階としてバンサモロ枠組み合意(英語版)が2012年10月15日に調印された[29]。しかしマギンダナオ州ママサパノ(英語版)で発生した衝突(英語版)でフィリピン国家警察(英語版)特別行動隊(英語版)の44人が殺害され、袋小路の中でバンサモロ基本法(英語版)を可決する努力が行われた[30][31]。東サバー(英語版)や南シナ海(英語版)の地域紛争に関する緊張が増大した[32][33][34]。2013年、フィリピンの初等教育と中等教育の10年間の教育制度に2年以上が加えられた[35]。2014年に国内のアメリカ軍基地の返還への道筋の基礎を築く防衛協力増進合意(英語版)が調印された[36][37][38][39]。
元ダバオ市長ロドリゴ・ドゥテルテが2016年大統領選挙で当選し、ミンダナオ島出身の初代大統領となった[40]。2016年7月12日、常設仲裁裁判所は南シナ海に関する南シナ海判決でフィリピンを支持する判決を行った[41]。大統領に当選してからドゥテルテは6か月で犯罪を根絶する公約を実行する強化した反麻薬運動を開始した[42]。2019年2月現在フィリピン麻薬戦争の死者は、全部で5176人である[43][44][45][46]。バンサモロ基本法(英語版)の施行は、ミンダナオ島のバンサモロ自治地域自治地域の創設に繋がった[47][48]。