ラシュヴァ渓谷の民族浄化
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ラシュヴァ渓谷の民族浄化(ボスニア語・クロアチア語・セルビア語:Etničko čišćenje u Lašvanskoj dolini / Етничко чишћење у Лашванској долини、英語:Lašva Valley ethnic cleansing)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中の1992年から1993年にかけて、ボスニア・ヘルツェゴビナのラシュヴァ渓谷(英語版)地域においてボシュニャク人(ムスリム人)の民間人に対して行われた一連の戦争犯罪の総称であり、これらはヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の政治的・軍事的指導者らによって指揮されたものである。1991年11月にクロアチア人民族主義者が設定した目標を具現化するために1992年5月から翌1993年3月にかけて準備され、同年4月に相次いで実行に移された[1]。ラシュヴァ渓谷のボシュニャク人は政治的・民族的・宗教的背景に基づいて迫害の対象とされ[2]、地域一帯での広範な攻撃の中で計画的にその対象とされ[3]、大量虐殺、強姦、強制収容所への収容、ならびに文化遺産および個人資産の破壊が行われた。また、とくにヴィテズ(英語版)、ブソヴァチャ(英語版)、ノヴィ・トラヴニク(英語版)、キセリャクの各自治体の領域内を中心に、反ボシュニャクのプロパガンダが行われた。
ラシュヴァ渓谷の民族浄化 | |
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場所 | ボスニア・ヘルツェゴビナ、ラシュヴァ渓谷地域 |
日付 | 1992年5月 - 1993年4月 |
標的 | ボシュニャク人 |
攻撃手段 | ボシュニャク人に対する民族浄化 |
死亡者 | 2000人 |
犯人 |
クロアチア防衛評議会 クロアチア共和国軍 |
動機 | 1991年11月にクロアチア人民族主義者により掲げられた目標を具現化するため |
防御者 | ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍 |
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旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(The International Criminal Tribunal for the Former Yugoslavia; ICTY)は、ダリオ・コルディッチ(英語版)をはじめとするクロアチア人の政治的・軍事的指導者ならびに兵士らに対する多くの判決で、これらの犯罪が人道に対する罪に該当するものと認定している[2]。この期間に行われたクロアチア防衛評議会による攻撃にかかわる証拠に基づき、コルディッチおよびチェルケズ事件(Kordić and Čerkez case)の判決においてICTYは、クロアチア人の指導者らはラシュヴァ渓谷からボシュニャク人を民族的に一掃するという意図あるいは計画を共有していたと認定した。地方の政治指導者であったダリオ・コルディッチは、こうした計画の立案者であり扇動者であるとされた[2]。さらに、隣接するクロアチアの軍であるクロアチア陸軍がこの作戦に関与していたと結論づけ、一連の戦争犯罪をクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナによる国際紛争であるとした[4]。
サラエヴォを拠点とするサラエヴォ研究・文献情報活動センター(英語版)によると、ラシュヴァ渓谷地域に住む2000人程度のボシュニャク人がこの期間に死亡もしくは行方不明となった[5]。