佐々木禎子
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この項目では、原爆の子の像のモデルについて記述しています。小説家の同名の人物については「佐々木禎子 (小説家)」をご覧ください。 |
佐々木 禎子(ささき さだこ、1943年〈昭和18年〉1月7日 - 1955年〈昭和30年〉10月25日)は、太平洋戦争末期の広島市への原子爆弾投下による被爆者の一人。12歳の若さで白血病により亡くなり[1]、広島平和記念公園にある『原爆の子の像』のモデルになった[2][3][4][5][6]。原爆を投下したアメリカ合衆国のシアトルの平和公園にも銅像がある。2004年7月25日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録された。
概要 ささきさだこ 佐々木偵子, 生誕 ...
ささきさだこ 佐々木偵子 | |
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晴れ着姿の佐々木禎子(1955年3月) | |
生誕 |
1943年1月7日 日本、広島県広島市 |
現況 | 死亡 |
死没 |
1955年10月25日(12歳9ヵ月没) 日本、広島県広島市 |
死因 | 亜急性リンパ性白血病 |
墓地 | 福岡県福岡市市内墓地 |
記念碑 | 広島市平和記念公園「原爆の子の像」 |
出身校 | 広島市立幟町小学校 |
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このように彼女の死は日米で語り継がれているだけでなく、旧ソビエト連邦でも教科書に載るほど広く伝えられ、現在のロシア連邦でも千羽鶴を折るイベントが開かれるなどしているが、その意味合いは反核運動よりも、アメリカを非難して、それに対抗する核抑止力の必要性を訴える目的が濃厚であった[1]。