勝義諦ウィキペディア フリーな encyclopedia 勝義諦(しょうぎたい)とは、仏教において、言葉を超え、世俗・世間の判断を超えた究極的な最高の真理のこと[1]。仏教の目ざす悟り、すなわち涅槃を指す[1]。勝義(巴: paramattha)、真諦ともいう[1]。世俗諦の語とともに用いられる仏教用語であり、世俗諦と合わせて二諦とされる以外は、解釈にさまざまな説がある[2]。 勝義諦の語は部派仏教時代の阿含経には現れないが、部派の論蔵(毘曇部)では世俗諦の語とともにすで見られる[3]。
勝義諦(しょうぎたい)とは、仏教において、言葉を超え、世俗・世間の判断を超えた究極的な最高の真理のこと[1]。仏教の目ざす悟り、すなわち涅槃を指す[1]。勝義(巴: paramattha)、真諦ともいう[1]。世俗諦の語とともに用いられる仏教用語であり、世俗諦と合わせて二諦とされる以外は、解釈にさまざまな説がある[2]。 勝義諦の語は部派仏教時代の阿含経には現れないが、部派の論蔵(毘曇部)では世俗諦の語とともにすで見られる[3]。