慕容廆
ウィキペディア フリーな encyclopedia
慕容 廆[1](ぼよう かい、拼音:Mùróng Guī、泰始5年(269年) - 咸和8年5月6日(333年6月4日))は、鮮卑慕容部の大人(部族長)(在位:285年 - 333年)。昌黎郡棘城県(現在の遼寧省錦州市義県の北西)の出身。字[2]は弈洛瓌[3]。父は慕容渉帰、兄に慕容吐谷渾、弟に慕容運がいる。遼西・遼東地方においてその勢力を拡大させて国家体制を整備し、後に前燕が覇権国家となるための基盤を築き上げた。その為、実質的な前燕の初代君主に数えられる事もある。子の慕容皝が燕王に即位すると武宣王と追諡され、さらに孫の慕容儁が帝位に即くと武宣皇帝と追諡され、廟号を高祖とされた。