教会大分裂
1378年から1417年の間のカトリック教会が分裂した状態 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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教会大分裂(きょうかいだいぶんれつ、ラテン語: Magnum schisma occidentale)は、1378年から1417年の間、ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立ち、カトリック教会が分裂した状態のことである。最も有名なシスマの1つで、単に「シスマ」という場合はこの事件を指すことも多く、また、「大シスマ」とも呼ばれる(「大シスマ」は、東西教会の分裂を指すこともある)。西方大離教、西方教会大分裂ともいう。
プロテスタント宗教改革 |
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1377年、グレゴリウス11世がローマに戻ったことによりアヴィニョン教皇捕囚は終結したとされるが、翌年に死去したため新教皇選挙(コンクラーヴェ)が行われ、新しくナポリ出身のウルバヌス6世が教皇に選出されたものの、多数派のフランス人枢機卿らは選挙を無効だとして、ウルバヌス6世の廃位とジュネーヴ出身のクレメンス7世の教皇選出を宣言した。クレメンス7世はアヴィニョンに戻り、教皇位を主張したウルバヌス6世はローマに留まったため、カトリック教会は両派に分裂することになった。
事態を収拾するため、1409年にピサ教会会議が開催され、2人の教皇(グレゴリウス12世・ベネディクトゥス13世)の廃位とアレクサンデル5世の選出を決めるが、2人の教皇は納得せず、結局、3人の教皇が鼎立する事態になった。
アレクサンデル5世の後継者であるヨハネス23世は1414年、神聖ローマ皇帝ジギスムントの圧力を受け、ドイツにコンスタンツ公会議を召集する。会期中にヨハネス23世はコンスタンツから逃亡してしまったため、公会議により廃位とされ、グレゴリウス12世も退位に同意。後にベネディクトゥス13世も廃位された。1417年、新たにマルティヌス5世が教皇に選出され、ようやく教会大分裂は収束した。