正常化体制 (チェコスロヴァキア)
1968年から1989年までのチェコスロバキアの歴史 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
正常化体制(せいじょうかたいせい、チェコ語: Normalizace, ノルマリザーツェ、 スロバキア語: Normalizácia, ノルマリザーツィア)とは、1968年8月20日のソ連による侵攻のあとに始まった、チェコスロヴァキア社会主義共和国における政治体制を指す。単に「正常化」とも。チェコスロバキア共和国共産党中央委員会第一書記(チェコ語版)を務めていたアレクサンデル・ドゥプチェク(Alexander Dubček)が1969年4月17日に辞任し、その後任としてグスターフ・フサーク(Gustáv Husák)が共産党指導者に就任した。ドゥプチェクが推し進めようとしていた「人間の顔をした社会主義」は「プラハの春」と呼ばれ、国民にある種の自由を提供しようとしたものであったが、ソ連率いるワルシャワ条約機構加盟国による連合国軍の侵攻によって終了した。1968年8月23日から8月26日にかけて、モスクワにて、チェコスロヴァキアの代表とソ連の代表が会談を行い、8月27日に共同声明を発表し[1]、モスクワ協定(スロバキア語版)に署名し[1]、ソ連軍の駐留が合法化され、1991年6月までソ連軍はチェコスロヴァキアに駐留し続けた。
概要 チェコの歴史, ウーニェチツェ文化 ...
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1970年12月10日から12月11日にかけて、チェコ共和国共産党中央委員会は、「プラハの春」に対する非難決議を発表し、「第13回共産党大会後の党と社会の危機的展開から得られた教訓」と題した文書を採択した。これが、チェコスロヴァキアにおける「正常化体制」の始まりと見られている[2]。