洞院公賢
日本の公卿 (1291–1360) / ウィキペディア フリーな encyclopedia
親愛なるWikiwand AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:
トップの事実と統計を挙げていただけますか 洞院公賢?
この記事を 10 歳向けに要約してください
すべての質問を表示
洞院 公賢(とういん きんかた)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。正式な名乗りは藤原 公賢。左大臣・洞院実泰の子。官位は従一位・太政大臣。通称は中園相国。出家して空元。また遍昭光院とも称された。有職故実の大家で、歴代天皇・将軍からたびたび諮問を受けた。また、公賢の日記『園太暦』は、中原師守『師守記』と並ぶ最重要史料であり、重要文化財に指定されている。文芸にも造詣が深く、歴史物語『増鏡』の作者の正体としては、二条良基に次ぐ有力候補である。養女で後醍醐天皇側室の洞院廉子(阿野廉子)を通じて、南朝の後村上天皇の系譜上の祖父になる。
概要 凡例洞院 公賢, 時代 ...
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
---|---|
生誕 | 正応4年8月13日(1291年9月7日) |
死没 | 延文5年4月6日(1360年4月21日)[1] |
改名 | 公賢→空元/遍昭光院 |
別名 | 通称:中園相国 |
官位 | 従一位、太政大臣 |
主君 | 伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→光明天皇→崇光天皇→後光厳天皇 |
氏族 | 洞院家 |
父母 | 父:洞院実泰、母:小倉季子(小倉公雄の娘) |
兄弟 | 公賢、慈厳、公敏、守子、公泰、実守 |
妻 |
粟田光子(粟田光久の娘) 粟田光久の娘 小倉実教の娘 |
子 |
実世、実夏、守賢、慈昭、定世、公世、徳大寺公清室、綸子、吉子、恵林、徽安門院東御方、西園寺実俊室、久良親王養女 養子:阿野廉子、実守 |
特記 事項 | 『園太暦』の著者 |
花押 | |
テンプレートを表示 |
閉じる