浮島丸事件
1945年の海難事故 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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浮島丸事件(うきしままるじけん)は、太平洋戦争終戦の日の後の1945年8月24日17時20分頃に、舞鶴港の京都府舞鶴市下佐波賀沖300mの地点で、日本海軍特設運送艦浮島丸(4,730総トン、乗組員255名)が、3,725名(4,000人とする場合もある[3][4])の朝鮮向けの便乗者らを乗せて舞鶴港にて触雷沈没、乗組員25名(戦死扱い)と便乗者549名(判明分)の死者をだした事件である。
概要 浮島丸事件, 場所 ...
浮島丸事件 | |
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浮島丸、1942年(特設巡洋艦時代) | |
場所 | 日本・京都府舞鶴市下佐波賀から300m沖合の舞鶴湾内 |
座標 | |
日付 |
1945年8月24日[1] 17時20分頃[1] |
概要 | 触雷、沈没 |
死亡者 | 549人(乗船者524人、乗組員25人)[2] |
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青森県の大湊港より釜山へ向かう往路、連合軍の命令を受けて舞鶴に目的地を変更、舞鶴港内で海底のアメリカ軍が敷設していた機械水雷(舞鶴鎮守府舞鶴防備隊報告[5])の爆発により沈没した。沈没原因について様々な憶測を呼んだ事件だが、日本軍およびアメリカ軍の公式記録では共に海底の機雷の爆発(触雷)による沈没とされている。なお自沈等謀略の風評が当時よりある。終戦直後の混乱期でもあり、便乗者の数は公式記録より多い可能性がある。
大韓民国では2023年現在でも有力紙の紙面において、朝鮮人生存者の証言として「乗船者は7,000~8,000人程度で少なくとも2,000~3,000人は死亡した」、犠牲者子孫の主張として「およそ10,000人が乗船し最大8,000人の朝鮮人が死亡した」とされる。どちらも確たる検証などなされずに公言されているが、いずれにしろ日本側による隠された真相があるとの責任論が定説として根強く残る[6][7]。