田沼時代
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田沼時代(たぬまじだい)は、日本の歴史(江戸時代中期)において、老中・田沼意次が幕政に参与していた時期を中心とした時代区分[1][2]。史学上は宝暦・天明期(ほうりゃく・てんめいき)として、宝暦・明和・安永・天明期(1751年-1789年)、すなわち享保の改革と寛政の改革の間の約半世紀の時代を指す[1][3]。意次が権勢を誇った期間を基準とする場合には、定義がいくつかあるが、概ね意次が側用人職に昇格した1767年(明和4年)から意次が失脚する1786年(天明6年)までと説明することが多い[4][5]。単に「田沼期」や「田沼の改革」「田沼の政治」といった呼ばれ方もある[6]。
この時代の特徴として通俗的には伝統的な緊縮財政策を捨て、それまで見られなかった商業資本の利用など積極的な政策を取ったとされている。一方では政治腐敗の時代、暗黒時代などとみなされ、賄賂政治の代名詞としても有名[2][4]。
一般にはその名を冠するように意次が世相を主導した時代区分と思われているが、当初より意次個人が絶大な権勢を奮ったわけではなく、今日にイメージされる幕政の専横は安永8年(1779年)とされ[7][8]、特に天明元年を契機とする[8][1]。また、古くは辻善之助が享保の改革期に連なる時代区分として宝暦-天明期の歴史的意義を評価し、この期間の代表的人物として意次を挙げて田沼時代と称する[9]。戦後においては林基や佐々木潤之介ら以降に、先述の通り宝暦・天明期を1つの時代区分として見ることが通説化しており[10]、特に近年においては化政文化に先立つものとして宝暦・天明文化が定義されている[11]。また、前代までの重農主義や緊縮政策の否定や商業資本が初めて用いられたという一般的な説も厳密には正しくない。
本稿では田沼意次が幕政に参与した期間の幕府の諸政策を中心としつつ、広く時代区分としての宝暦-天明期の歴史的位置づけについて解説する。