甲午農民戦争
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甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)は1894年(甲午)に李氏朝鮮で起きた李氏朝鮮王朝に対する農民暴動、内乱である。主要な関与者に東学の信者がいたことから東学党の乱(とうがくとうのらん)とも呼ばれる。
東學農民革命 | |
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甲午農民戦争の始まりとともに広まった全琫準の檄文 | |
各種表記 | |
ハングル: | 동학농민혁명 |
漢字: | 東學農民革命 |
発音: | トンハンノンミヌンドン |
日本語読み: | とうがくのうみんうんどう |
ローマ字: | Donghak nongmin undong |
英語表記: | Donghak Peasant Revolution |
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李朝の統治理念である儒教(朱子学)思想を揺るがす、身分差別を否定する内容が含まれる新興宗教「東学」を1860年から布教しだした第1世教主崔済愚が、1863年に李氏朝鮮王族や支配層である士族(両班)の怒りを買って捕らえられ、翌1864年に「邪道亂正」の罪で処刑された[1]。そして、第2世教主崔時亨は東学の公認を求めたが、同様に李朝から強く弾圧された。そして、彼らの取締りを口実にした朝鮮官吏の収奪が更に横行するようになると、李氏朝鮮の虐政が甲午農民戦争へ発展する火種となった。東学党は困窮する朝鮮農民に布教された反西学(反キリスト教)の新興宗教一派であり、彼らによる李氏朝鮮の上位層による収奪への反発・経済改革要求から朝鮮南部で大きな運動に発展し、暴動は南部を中心に全土に波及した[1][2]。蜂起した農民軍の相手は主に朝鮮官軍、守城軍、民堡軍(両班の士族)だった。この暴動への対処として、朝鮮王朝は清に救援を要請した。すると大日本帝国も自国民保護と清朝との天津条約を理由に、大清の参戦と同時に朝鮮に出兵した。これに危機感を強めた朝鮮王朝と農民軍はいったん和議を結んだ。しかし、勢力拡大を狙う大日本帝国は朝鮮内政に干渉を始め、大清は日本政府の干渉行為と日本軍の存在を理由に撤退せず、対立が激化、日本軍の王宮占領を機に日清戦争に発展する。
なお、日本軍が朝鮮の内乱自体に介入したのは日清戦争中の清軍大敗後からとなる[3]。農民軍は戦う相手を「圧制者である朝鮮王朝」から「侵略者である日本軍」へと変えて再蜂起し、日本軍と戦うこととなった[4]。そのため、大韓民国では東学農民運動や東学農民革命と呼ばれ、日本への民衆独立運動の始まりと評する声もある[5][6]。これに対し、日本軍との衝突前の第一次蜂起における農民軍と官軍との戦いでの死者数も既に大きいこと、指導者の全琫準が作成した文書『茂長布告文』は教祖伸寃(教祖の冤罪を晴らす)、貪官汚吏清算、斥倭洋の順であることから、外国勢力をはね除ける民族主義の源流とは解せるが、「侵略に対する抗日武装闘争」という点を作為的に強調するのは本末転倒という声もある[7]。通説では、「斥倭洋」といったスローガンの中心化等を基に第一次蜂起から二次蜂起にかけて李朝朝鮮の圧制に対する反封建運動から抗日運動に転換していったとされている[8]。これに対し、朴孟洙は「斥倭洋」「逐滅洋倭」といった反侵略の言葉と思想が初期からあり、抗日・排西洋の姿勢は一貫していて非暴力的抗議活動から日本軍の武力進出により武力蜂起に発展したとものとしている[9]。