第3回十字軍
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第3回十字軍(だい3かいじゅうじぐん、1189年 - 1192年)とは、ラテン教会(英語版)下の3人の国王(フランス王フィリップ2世、イングランド王リチャード1世、ローマ皇帝フリードリヒ1世)により行われた聖地回復のための軍事遠征である。この遠征は1187年に聖地エルサレムがサラディンに奪還された(英語版)ことがきっかけで開催された遠征であり、遠征の主体が上述の3人の国王であったことから諸王の十字軍としても知られている[13]。
第3回十字軍 | |
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十字軍中 | |
十字軍の遠征経路を示した地図 | |
戦争:第3回十字軍 | |
年月日:1189年5月11日〜1192年9月2日 | |
場所:レバント・シチリア島・イベリア半島・アナトリア半島 | |
結果:ヤッファ条約を締結した。 | |
交戦勢力 | |
十字軍:
レバントにおける十字軍国家: ギリシャ正教会系諸国: |
スンナ派諸王朝:
ルーム・セルジューク朝
ギリシャ正教会系の諸国:
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指導者・指揮官 | |
十字軍:
十字軍国家:
騎士団: 東方正教系:
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スンナ派諸侯:
東方正教: |
戦力 | |
総兵力:36,000〜74,000人(推定)
ビザンツ帝国領内通過中に2派遣団(約1,000人)がフリードリヒ軍に参加。 |
アイユーブ朝: 推定40,000人(サラディン配下の野戦軍。1189年〜。)[8] 5,000〜20,000人 (アッコ守備隊。1189年)[9][10] セルジューク: 22,000人強(Qutb al-Dinの野戦軍。 1190年)[11][12] |
この遠征は一定程度成功したとみなされている。十字軍はアッコやヤッファ(英語版)といった重要な諸都市を再獲得し、サラディンがそれまでに征服した地域の大半を奪還することに成功したからである。ただし、十字軍が最大の目標と掲げていた聖地エルサレムの奪還を成し遂げることはできなかった。
1147年から1149年にかけて行われた第2回十字軍が失敗に終わった後、近東で勢力を伸ばしていたイスラム王朝、ザンギー朝は分裂していたシリア(英語版)を統合し、エジプト(英語版)の支配者ファーティマ朝と紛争を抱えるようになった。ザンギー朝の家臣であったサラディンはエジプト-シリア間の紛争などに関与したことで両勢力の軍勢を自身の配下に収めることに成功し、その軍事力を持ってして十字軍国家の勢力削減や聖地エルサレムの十字軍からの奪還に専念した。聖地がムスリムの手に落ちたことを受け、宗教的情熱に掻き立てられたイングランド王ヘンリー2世とフランス王フィリップ2世は両者間の紛争を一時終結させ、聖地奪還のための新たな十字軍遠征を共に企画した。しかしヘンリー2世は遠征前に亡くなってしまい、イングランド遠征軍は彼の継承者であるリチャード1世獅子心王に引き継がれた。フランス王・イングランド王による聖地奪還の試みに神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世も参加し、大軍を率いてバルカン半島・アナトリア半島を経由して聖地へと進軍した。フリードリヒ1世は道中、セルジューク・トルコの軍勢を撃破するなどの活躍を見せたものの、1190年6月10日、聖地にたどり着く前に渡河中に溺死した。フリードリヒと共に従軍していたドイツ人諸侯は皇帝の死をひどく悲しみ、ドイツ軍の大半は母国へと帰還したという。
聖地における重要な都市の1つ、アッコからムスリム軍を追いやった後、1191年8月、十字軍を率いていたフランス王フィリップ2世は、フリードリヒ1世の死後残ったドイツ人諸侯を取りまとめ聖地へと辿り着いたオーストリア公レオポルト5世と共に聖地を離れ母国へと帰還した。アルスフでの十字軍の大勝によりレバント地方の沿岸部の大半の地域は十字軍の支配下に戻った。1192年9月2日、最後まで聖地に残り戦い続けていたイングランド王リチャード1世は、ムスリム側の総大将サラディンと講和条約を締結し、ムスリムのエルサレム統治を認める代わりに非武装の巡礼者や商人のエルサレム訪問を許可することなどを取り決めた。1192年9月9日、リチャード1世は聖地を離れた。第3回十字軍での部分的成功により、ヨーロッパ人はキプロス島とレバント沿岸諸都市といった広大な領土を維持することができた。
「聖地エルサレムの奪還」という最も重要な目標は結局成し遂げることができなかった。この壮大な目標は続く第4回十字軍を駆り立てることとなったが、エルサレム奪還はこれから40年ほどのちに行われる第6回十字軍まで成功することはなかった。もっとも、第6回十字軍遠征により奪還した聖地エルサレムもその後すぐに奪い返されることとなった。