羽仁協子
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羽仁 協子(はに きょうこ、1929年11月5日 - 2015年4月5日)は、日本の音楽教育家。
羽仁五郎と羽仁説子の娘、羽仁進の妹として東京府に生まれる。祖父母に当たる羽仁もと子・羽仁吉一夫妻が創設した自由学園で学ぶ。在学中に山本直純や林光らと共に音楽教育を受け、齋藤秀雄指揮教室にて指揮法を学んだ。同門には小澤征爾、久山恵子、秋山和慶らがいる。1949年自由学園高等科卒業[1]。 1953年に渡欧[2]。ウィーン滞在を経て、1958年ライプツィヒ音楽院指揮科卒業。同年よりハンガリーに移り住み、父・五郎を通じてコダーイ・ゾルターンに会う機会を得た。 1959年[2]から1967年までブダペスト大学(正式名はエトヴェシュ・ロラーンド大学、略称:ELTE)で日本語講師を務める[1]。その間にハンガリー語を習得し、後に通訳及び多数の文学を翻訳することとなる。 同年に帰国し、翌1968年コダーイ芸術教育研究所を設立し主催。コダーイ・メソッドを核とする音楽教育の普及に力を尽くすなか、1970年から音楽教育の研修生をハンガリーに送り出す[2]。研究所では日本のわらべうたを採用した教材を作成し、民族音楽学の小泉文夫が協力している[2]。 1973年、オークランドで開催の「第1回国際コダーイシンポジウム」にて「日本のコダーイシステムの実践」を発表する[2]。1975年には国際コダーイ協会が設立され、日本から谷本一之とともに参加。1978年日本コダーイ協会が発足。1980年にはコダーイ芸術教育研究所の実践施設として、松の実保育園を開設する。1989年、日本コダーイ協会の2代目会長となり10年間務め、のち顧問。