習志野俘虜収容所
ウィキペディア フリーな encyclopedia
習志野俘虜収容所(ならしのふりょしゅうようじょ)は、千葉県千葉郡幕張町実籾字実花新田(現・習志野市東習志野)にあった陸軍習志野演習場区域内に開かれた俘虜収容所。なお、俘虜情報局編『大正三四年戦役俘虜写真帖』には「収容所位置」として、千葉県千葉郡二宮村と書かれている[1]。
第一次世界大戦期、日独戦ドイツ兵捕虜約1,000人を収容した事で後世に知られるようになった[2]。収容所長は西郷隆盛の嫡子である西郷寅太郎大佐が務めていた。また、西郷所長が在職中に死亡した後は、山崎友造大佐(後に少将)が収容所の閉鎖まで所長を務めた。
なお、第一次世界大戦前、習志野市には日露戦争後にロシア兵捕虜(最大1万5000人)を収容した施設も設けられていた(1906年閉鎖)[3]。