藤原顕光
平安時代中期の公卿。藤原北家。藤原兼通の長男。従一位・左大臣。子に重慶(僧侶)。 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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藤原 顕光(ふじわら の あきみつ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家、関白太政大臣・藤原兼通の長男。官位は従一位・左大臣。
概要 凡例藤原顕光, 時代 ...
時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 天慶7年(944年) |
死没 | 治安元年5月25日(1021年7月7日) |
別名 | 堀河左大臣、悪霊左府 |
官位 | 従一位、左大臣 |
主君 | 村上天皇→冷泉天皇→円融天皇→花山天皇→一条天皇→三条天皇→後一条天皇 |
氏族 | 藤原北家九条流 |
父母 |
父:藤原兼通 母:昭子女王(元平親王の娘)[注釈 1] |
兄弟 | 顕光、媓子、時光、朝光、遠光、正光、婉子、親光、用光 |
妻 | 盛子内親王(村上天皇の皇女)、藤原遠量の娘 |
子 | 重家、元子、延子、重慶、顕忠[注釈 2] |
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父・兼通が関白になると、昇進して公卿に列するが、兼通の死後はその弟・兼家(顕光の叔父)と道長(顕光の従弟)父子に実権を奪われる。無能者として知られ、朝廷の儀式で失態を繰り返して世間の嘲笑を買った。晩年、左大臣に上るが失意のうちに死去し、道長の家系に祟りをなしたと恐れられ、悪霊左府と呼ばれた。