野田宇太郎
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政治家の「野田卯太郎」とは別人です。 |
野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月28日[1] - 1984年(昭和59年)7月20日[1])は、日本の詩人、文芸評論家、文芸誌編集長。三島由紀夫や幸田文を世に送り出した人物である[2]。
福岡県三井郡立石村(現小郡市)出身[1]。朝倉中学卒業後、第一早稲田高等学院英文科に入学するが、病気により中退[1]。1930年(昭和5年)、久留米市で同人誌『街路樹』に参加して詩作を開始する。1933年(昭和8年)、詩集『北の部屋』を出版[1]。1936年(昭和11年)、安西均や丸山豊らと同人誌『糧』を創刊[2]。1940年(昭和15年)に上京し[1]、小山書店に入社。その後第一書房、河出書房を経て、1944年(昭和19年)文芸誌『文藝』の編集長を務めた後[2]、東京出版に入社。衆議院議員の羽田武嗣郎(羽田孜の父)と交友があり、彼が創業した羽田書店の顧問も務めた。
1951年(昭和26年)、日本読書新聞に『新東京文学散歩』を連載、その単行本はベストセラーとなり「文学散歩」のジャンルを確立した[1]。1975年(昭和50年)には『日本耽美派文学の誕生』で芸術選奨文部大臣賞を受賞[1]。その後は博物館明治村の常務理事を務め、1977年(昭和52年)には明治村賞と紫綬褒章を受賞。1978年(昭和53年)には中西悟堂らと同人誌『連峰』を創刊。
1984年(昭和59年)7月20日、心筋梗塞のため国立療養所村山病院(現・国立病院機構村山医療センター)で死去[1]。戒名は新帰寂文学院散歩居士[1][3]。墓所は相模原市青柳寺。小郡市松崎にも分骨墓がある。
出身地の小郡市には、野田宇太郎文学資料館がある(小郡市立図書館内)[2]。1985年(昭和60年)、小郡市に野田宇太郎詩碑が建立された。