2011年リビア内戦
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2011年リビア内戦(2011ねんリビアないせん)は、リビアにおいて2011年に起こった政治社会的要求を掲げた反政府デモを発端とする大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国とリビア国民評議会などの反政府勢力の間で勃発した内戦である。アラブ圏に於いては「2月17日革命」(ثورة 17 فبراير)と呼ばれる。
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概要 交戦勢力, 指導者・指揮官 ...
2011年リビア内戦 | |
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左上から時計回りに反政府勢力を支援する国の国旗を掲げる反政府派の人々、アルバイダでの政府支持派と反政府派の衝突、反政府派のデモ活動、武器を持った反政府派の民兵。 | |
戦争:2011年リビア内戦 | |
年月日:2011年2月15日[1] - 10月23日[2] | |
場所:リビア | |
結果:反カダフィ勢力の勝利によりカダフィ政権は崩壊、後にカダフィは殺害された[3]。しかしその後リビアは無政府状態となり、同国の治安は最悪の状態となる[4]。 | |
交戦勢力 | |
リビア | リビア国民評議会 カタール アラブ首長国連邦 ヨルダン NATO アメリカ合衆国 イギリス ブルガリア フランス イタリア オランダ ベルギー カナダ デンマーク ルーマニア スペイン トルコ ノルウェー スウェーデン チュニジア |
指導者・指揮官 | |
ムアンマル・アル=カッザーフィー † サイフ・アル=イスラーム・ムアンマル・アル=カッザーフィー アル=ムアタシム=ビッラーフ・アル=カッザーフィー バグダーディ・アル=マフムーディ アッ=サーディー・アル=カッザーフィー |
ムスタファ・アブドルジャリル ハリファ・ハフタル マフムード・ジブリール ハフィズ・ゴーガ ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニー バラク・オバマ デーヴィッド・キャメロン ニコラ・サルコジ スティーヴン・ハーパー |
戦力 | |
陸軍5万人 海軍8000人 空軍2万人 総兵力7万8000人[5] |
反対派6万4000人 NATO軍空爆7587回[6] |
損害 | |
推定5万人戦死・犠牲[7] | |
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2月15日に開始され、同年8月に首都トリポリが北大西洋条約機構軍の支援を受けた反体制派のリビア国民評議会の攻勢によって陥落し、事実上の最高権力者として40年以上政権の座にあったムアンマル・アル=カダフィ(以下カダフィ大佐)革命指導者が率いる大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国は事実上崩壊した。その後もカダフィ大佐は抗戦を続けたが10月20日に最後の拠点スルトで身柄を拘束され、その際に受けた攻撃でカダフィ大佐は死亡した[8][9]。10月23日に国民評議会によりリビア全土の解放が唱えられ内戦終結が宣言されたが、その後、親カダフィ勢力およびイスラム国の台頭を招き内戦は現在まで継続している。