日本占領時期のインドネシア
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日本占領時期のインドネシア(にほんせんりょうじきのインドネシア、英語: Japanese-occupied Dutch East Indies)では、第二次世界大戦中の1942年3月から1945年9月終戦にかけて大日本帝国が占領した「蘭印」と通称される当時のオランダ領東インド(現在のインドネシア)について説明する。この時期のインドネシアについては日本軍政下などの表記もある[1][2]。
公用語 | 日本語、インドネシア語 | ||||||||||||||||||||||
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首都 | ジャカルタ | ||||||||||||||||||||||
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通貨 | オランダ領インド・ルピア | ||||||||||||||||||||||
現在 | 東ティモール インドネシア |
- 日本軍政下オランダ領東インド
- 蘭印
Pendudukan Jepang di Hindia-Belanda -
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←1942年 - 1945年 →
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→(日章旗) (菊花紋章) - 国の標語: 八紘一宇
- 国歌: 君が代Indonesia Raya(インドネシア語)
インドネシア・ラヤ(非公式)
大日本帝国の最大版図におけるオランダ領東インド(暗赤色)
植民地だったオランダ領東インド(以降、蘭印と略称)は、オランダ本国がナチス・ドイツに占領されたために日本軍に対抗する能力がほとんどなく、1942年3月9日に降伏した[3][4]。日本政府の対インドネシア政策は、1941年の御前会議で「治安回復、早期資源獲得、軍部隊の現地自活」が決定しており、インドネシアから資源と労働力を得るのが目的だった。中でも最も重要な資源は石油だった[5][6]。
当初のインドネシア人は、オランダの植民支配からの解放者として日本軍を歓迎し、日本は蘭印政府が禁止していた「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁した。しかしインドネシアの民族旗や、民族歌「インドネシア・ラヤ」は禁止された[7]。日本軍は、オランダ同様に結社や集会、政治に関する言論、行動および民族旗使用の禁止を布告し、インドネシア民衆の期待を裏切った[8]。また厳しい規律の日本式の軍政や皇民化が施され、飢饉を招いた籾の強制供出、ロームシャと呼ばれる重労働を課せられた者もあり、インドネシア人の対日感情は変化していった[注釈 1][8]。
日本軍のインドネシア占領は、他の東南アジア地域と次のような点で異なっていた。
- 民族独立運動は蘭印政府によって弾圧されており、民族主義者の間では日本のアジア解放のスローガンが期待されていた。
- 組織的な反日活動をする指導層が存在せず、軍政が比較的安定していた。
- 連合軍による攻撃が、一部の地域をのぞいてほとんどなく、国土が戦場にならなかった。
- 独立を認めず、日本の降伏まで軍政が続いた[注釈 2]。
- インドネシア独立の功労者は、スカルノをはじめとして対日協力をした人々だった。そのためインドネシア独立後に対日協力の是非は問われず、戦後の対日感情は他の元占領地と比べて良好だった[注釈 3][13]。
連合軍の主な部隊はインドネシアを迂回しており、そのため1945年8月の日本降伏時にもインドネシアの大半が依然として日本軍の占領下にあった[14]。日本の降伏後、独立を宣言したインドネシア共和国と植民地奪還を目論むオランダとの間で戦争が始まった(インドネシア独立戦争)。インドネシアのたゆまぬ武力闘争と外交交渉の果てに、1949年12月、ついにオランダがインドネシアの主権を認めるに至った。国際連合の報告では、飢饉と強制労働によって日本軍占領下のインドネシアでは約400万人が死亡したとされる[15]。