Loading AI tools
アメリカ合衆国の聖書学者 (1794-1863) ウィキペディアから
エドワード・ロビンソン(Edward Robinson、1794年4月10日 – 1863年1月27日)は、「聖書地理学の父 (Father of Biblical Geography)」と称される、アメリカ合衆国の聖書学者。「現代パレスチナ学の創始者 (founder of modern Palestinology)」とも呼ばれる[1]。
ロビンソンはコネチカット州サジントンに生まれ、農場で育った。1810年から1811年には、同州内のイースト・ヘイブン (East Haven) やファーミントン (Farmington) で教鞭を執った。その後、おじセス・ノートン (Seth Norton) が教授を務めていた、ニューヨーク州オナイダ郡クリントン (Clinton) のハミルトン・カレッジに学んだ[2]。1816年にカレッジを卒業した後、1821年に、自ら編纂した『イーリアス』の1-9、18-19巻を出版する目的でマサチューセッツ州アンドーバー へ赴いた。そこでロビンソンは、自著『Hebrew Grammar』(ヘブライ語の文法書)の第2版(1823年刊行)の準備をしていたモーゼス・スチュアート (Moses Stuart) の助手となり、1825年にはクリスチャン・エイブラハム・ウォール (Christian Abraham Wahl) の『Clavis Philologica Novi Testamenti』(ラテン語で書かれた新約聖書の語彙目録)を英語に翻訳した。1826年から1830年にかけてヨーロッパへ留学して、その期間の大半をハレとベルリンで過ごし、帰国後はアンドーヴァー神学校で、1830年から1833年まで、聖書文献学の特任教授となった[3]。
1828年、ロビンソンはドイツ人の作家テレーゼ・アルベルティン・ルイーズ・フォン・ヤーコブ (Therese Albertine Luise von Jakob) と結婚した。
ロビンソンは1831年に『Biblical Repository』誌を創刊し、4年間その編集に従事した[2]。また、1843年には『Bibliotheca Sacra』誌を創刊し、 『Biblical Repository』を統合した。この間、ボストンで3年間をかけて、ギリシア語の語彙目録(レキシコン)作成に取り組んだ[2]。病のためにニューヨーク市へ移ることとなったロビンソンは、1837年にユニオン神学校で聖書文献学の教授となり、没するまでその地位にあった。
1838年、ロビンソンはイーライ・スミス (Eli Smith) とともにパレスチナを訪れ、その成果をまとめた『Biblical Researches in Palestine and Adjacent Countries』を出版し、これに対して1842年にイギリスの王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた[1][4]。1847年には、アメリカ芸術科学アカデミー会員(フェロー)に選出された[5]。ロビンソンは、スミスとともに、何十カ所もの古代の場所の同定作業を行ない[1]、その中には紀元前701年から702年にかけてのアッシリアによるエルサレム包囲 (Assyrian Siege of Jerusalem) の直前にヒゼキヤが掘らせたというトンネル(ヒゼキヤのトンネル:Hezekiah's Tunnel)もあったが、トンネルの南端からシロアム碑文 (Siloam inscription) が出土したのは、その後になってからのことであった。エルサレム旧市街にあるロビンソン・アーチ (Robinson's Arch) は、ロビンソンにちなんで名付けられたものである。ロビンソンとスミスは、1852年にさらに調査を行うため、パレスチナを再訪した。ロビンソンにとって、1856年に 『Biblical Researches in Palestine and Adjacent Countries』の増補版がドイツ語と英語で同時に出版されたことは、1836年にヴィルヘルム・ゲゼニウス (Wilhelm Gesenius) のヘブライ語の語彙目録の翻訳と、ギリシア語の新約聖書語彙目録を刊行したとき以来の、大きな達成であったのであろう。既に、このかつての業績によって、学者としてのロビンソンの地位は不動のものとなっており、ギリシア語語彙目録の序文でロビンソンは「これたふたつを合わせれば、聖書原典のすべてを網羅した語彙目録となる」と記していた。しかし、これに加えて3点の主要著作が出され、その後の考古学的フィールド調査への筋道を示したことによって、この方面の「創始者 (Founder)」としてのロビンソンの評判はさらに高められた。1941年、G・アーネスト・ライト (G. Ernest Wright) は、ロビンソンが打ち立てた定式を評価する立場から、ネルソン・グリュック (Nelson Glueck) の『The Other Side of the Jordan』で報告された先駆的な調査の内容についての書評に、次のように記した。「グリュックの探険は何者にも劣るところがない、エドワード・ロビンソンの業績があるところは別としてのことだが。 (Glueck’s explorations are second to none, unless it is those of Edward Robinson.)[6]」
ロビンソンが編集や翻訳を手がけたもの
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.