カール・タイケ
ドイツの作曲家 ウィキペディアから
ドイツの作曲家 ウィキペディアから
カール・アルベルト・ヘルマン・タイケ(ドイツ語: Carl Albert Hermann Teike, 1864年2月5日 - 1922年5月22日)はドイツの作曲家。軍楽隊のために100曲以上の行進曲と、演奏会用の20曲を残す。吹奏楽の作曲家として有名。
ポンメルンのシュテティーン・アルトダムにて鍛冶屋の息子に生まれる。実家は子沢山で、14人兄弟の第4子であった。14歳で音楽の学習を始め、様々な楽器をこなした。19歳でヴュルテンベルク王国の軍楽隊員として入隊し、歩兵第123「国王カール」連隊(ヴュルテンベルク歩兵第5連隊)に付属の軍楽隊に配属された。シュヴァーベンの都市ウルムに駐在し、地元の劇場オーケストラのためにホルンや打楽器の演奏家としても活動する。
処女作『アルブレヒト王子』を皮切りに、いくつかの行進曲を作曲する。間もなく『旧友』を作曲するが、当時の同軍楽隊長パウル・エールテ(Paul Oelte, 1854-1931)に作品を酷評され、「ストーブの薪にしてはどうか?」と言い放たれるという有名なエピソードが残っている。1889年には同軍楽隊を退き、ウルムの警察官に転職。以後、副業として行進曲の作曲を続けた。同年に地主の女性と結婚している。1895年にはブランデンブルク州のポツダムに移り、警察官として勤務を続けた。当時のポツダム周辺にはドイツでも有数の演奏技術を有する軍楽隊がいくつも駐屯し、次第に彼の楽曲は軍楽隊関係者や出版社を通じて国内外に広く知られ、やがて当時の皇帝ヴィルヘルムⅡ世の目にも留まる様になる。1907年に肺炎を患い、翌1908年に警察官を辞職。1909年に東部ブランデンブルクのランツベルク・アン・デア・ヴァルテで郵便局員となり、同地で1922年に死去した。
行進曲「旧友」は、タイケの代表作であるだけではなく、世界的に有名なドイツの行進曲の一つである。ほかに、全日本吹奏楽コンクールの課題曲になった『剛毅潔白(ゆるがぬ忠誠,In Treue fest)』や『ツェッペリン伯爵号(Graf Zeppelin)』がよく知られる。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.