Loading AI tools
フランスの哲学者 ウィキペディアから
シャルル=ルイ・ド・モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu、1689年1月18日 - 1755年2月10日[1])は、フランスの哲学者である。本名は、シャルル=ルイ・ド・スゴンダ (Charles-Louis de Secondat, baron de la Brède et de Montesquieu) で、ラ・ブレードとモンテスキュー (Montesquieu) を領地とする男爵 (baron) でもあった。生家のシャトー・デ・ラ・ブレードは2024年現在も現存するシャトーであり、ワインを生産している。
フランス南西部にあるボルドー近郊で生まれた。彼が7歳の時、母が逝去。母の遺産を継承し、ラ・ブレード男爵となる。ボルドー大学法学部卒業後、1709年からパリに遊学。1713年末、父の訃報により帰郷する。翌年、25歳でボルドー高等法院の参事官となる。1716年、伯父の死により、モンテスキュー男爵の爵位とボルドー高等法院副院長の官職を継承する。しかし、実務面には無関心で、1721年には、匿名で『ペルシア人の手紙』を出版。この作品は2人のペルシア人イスラム教徒がフランスを訪れ、本国の知人へ手紙でフランスの風俗や出来事を紹介するという体裁を取った風刺作品で、大きな反響を呼んだ[2]。1726年、37歳で、ボルドー高等法院副院長の官職を辞職。以後、学究生活に入る。1728年1月、アカデミー・フランセーズの会員に選出された直後、4月から諸国遍歴の旅に出る。モンテスキュー自身の旅行記によればウィーン、ハンガリー、イタリア諸都市に滞在し、さらにドイツ諸都市、アムステルダムを経由してイギリスに渡っている[3]。1731年に祖国であるフランスに帰国。1734年、『ローマ人盛衰原因論』を出版。1748年、匿名で『法の精神』を出版。大量の偽版が出るほどの好評を博したが、ローマ教皇庁やソルボンヌ神学部などの教会関係者からの批判も招き、カトリック教会から禁書目録指定を受けた[4]。
イギリスの政治に影響を受け、フランス絶対王政を批判し、均衡と抑制による権力分立制の基礎を築いた。なお、イギリス滞在の間にフリーメイソンとなった。
法とは、「事物の本性に由来する必然的な関係」であると定義し、政治権力を分割しない統治形態による法からは、政治的自由が保障されないと考え、執筆に20年かけたと言われる自身の著作『法の精神』の中で、政治権力を立法・行政・司法に三分割する「分立論」(「分立論」)を提唱した。
晩年は、視力の減退に悩まされた。そんな中、著作『百科全書』の為に「趣味論」の執筆に取り組んだが、完成することは無く1755年2月10日にパリで逝去した。
『ペルシア人の手紙』の一節では、非キリスト教国の出生率の高さを離婚を許容している為とし、また、「夫婦相互の愛情に何よりも寄与するのは離婚の可能性である」と論述した箇所がある(女性の離婚権のみを主張) [6] 。
彼の肖像は旧フランス・フランの200フラン紙幣に描かれたことがあった。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.