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ドイツ民主共和国(東ドイツ)の秘密警察・諜報機関である国家保安省の通称 ウィキペディアから
シュタージ(ドイツ語: Stasi)は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の秘密警察・諜報機関を統括する省庁である。正式名称は国家保安省(ドイツ語: Ministerium für Staatssicherheit、略号: MfS。英語では Ministry for State Security)。シュタージの通称は「Staatssicherheit」の短縮語に由来する。
全盛期には、対人口比で同じナチス政権下のゲシュタポや、ソ連のKGBを凌ぐ規模になり[1][2]、徹底的な相互監視網を敷いて国民生活の抑圧を行ったほか、対外諜報として西ドイツをはじめとする西側諸国にスパイを送り込んだ。
ツァイサー(左)とヴォルヴェーバー(右) |
1947年8月16日、東ドイツのソ連占領軍当局は「第5委員部(K-5)」(秘密警察組織)を創設した。その委員(大臣に相当)には、ヴィルヘルム・ツァイサーを、副委員にはエーリッヒ・ミールケを任命した。形式上、K-5は人民警察刑事局に従属した。
東ドイツでは、1949年のドイツ民主共和国建国以前からソ連軍軍政下に自治組織であるドイツ経済委員会(DWK)があり、「人民警察」(Volkspolizei、略してフォーポ―)も組織されていた。この「人民警察」は「兵営人民警察」を経て国家人民軍となった。また、K-5やシュタージの創設にはナチス政権時代の秘密警察のゲシュタポや国家保安本部第III局と第VI局で国内諜報や国外諜報を担当した親衛隊情報部(SD)の出身者が相当数採用されたとの説もあるが、真偽や詳細については不明な部分がほとんどである。
1949年のドイツ民主共和国建国後、1950年に国家保安省が創設された[3]。国家保安相にはツァイサーが、次官はミールケが任命された。1951年、後のHVA(HV A)となる外交政策諜報機関(APN)が経済学研究所(IPW)という名称で外務省の管轄下で設立される[4]。APNは1953年に同組織の職員が西側に亡命するまで、諜報機関とは認識されていなかった[5]。1953年、ミールケはベルリン暴動と関連して、ツァイサーを弾劾し、ツァイサーは解任された。1953年7月には、国家保安省の地位は低下し、内務省に従属する庁扱いとなった[6]。内務省国家保安局長には、エルンスト・ヴォルヴェーバーが、副局長にはミールケが任命された。APNもこの時、内務省国家保安局の第15課に編入された[6]。
1955年、シュタージは省の地位を取り戻した。ミールケは、ヴァルター・ウルブリヒト(ドイツ社会主義統一党第一書記)支持の際、ヴォルヴェーバーを弾劾した。1957年11月1日、ヴォルヴェーバーは、健康上の理由で辞任し、ミールケが国家保安相となった[7]。ミールケの下で、シュタージにはソ連国家保安委員会(KGB)と同様の軍隊式の階級制度および制服が導入され、ミールケ自身は少将となった(1959年に中将)。
1958年、シュタージに対外諜報を担当する「A」総局(HV A)が創設された。「A」とは偵察を意味するドイツ語の「Aufklärung」の頭文字である。「A」総局長兼国家保安省次官には、マルクス・ヴォルフ少将が任命された。
1971年、シュタージの策動の下ウルブリヒトは第一書記退任に追い込まれ、エーリッヒ・ホーネッカーと交代した。ホーネッカーは感謝の印に、ミールケをドイツ社会主義統一党政治局員候補にした。
1986年、ヴォルフが辞任。ヴォルフの後任には、ヴェルナー・グロスマンが任命された。1989年時点で、「A」局では4,000人強の職員が働いており[8][9]、各国に4,500人以上のエージェントを有していた。
1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊し、シュタージは国家保安局(Staatssicherheitdienst、略号: SSD」に改称したが、翌12月に解散した。
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シュタージには、以下の組織・部局が存在した。
シュタージの正規の職員の数については、1953年6月時点で4000人、1953年11月時点では9000人、1975年には5万9458人と順次増員されていった[12][13]。ベルリンの壁崩壊前後(1989年)時点では、文献によりばらつきがあるが、9万人から10万人の正規職員を抱えていた[1][14][2][15][11][13]。一方非公式協力者(IM、Inoffizieller Mitarbeiter)と呼ばれた密告者については、ベルリンの壁崩壊後の東ドイツ政府の発表では10万9000人とされるが[16]、文献によっては17万人とも[17][2][15][11]、200万人ともいわれる[16]。社会に対するこのような監視方法はナチス・ドイツ時代のゲシュタポのそれに似たものであり[18]、手法を踏襲したものだと見られている。
シュタージは軍隊式の階級を持ち、正規職員は国家人民軍地上軍(陸軍)のものと酷似した制服を着用することもあった。
シュタージ解散後、米国と西ドイツ間で、シュタージエージェントの名前が記された「シュタージ・ファイル」の獲得を巡る暗闘が始まった。シュタージ・ファイルとは、一種のカードであり、情報源の項目にはエージェントの登録番号と偽名、本文の項目には提供情報のレジュメと日時が記載されていた。
1990年1月15日、東ドイツの人権活動家達がベルリンの旧シュタージ庁舎を占拠した。彼らは、大量のファイルを入手したが、対外諜報機関関係の書類だけは一つも見つからなかった。対外諜報関係の資料は、マルクス・ヴォルフがソ連に持ち出したとも、KGB駐東ドイツ支局が焼却したとも言われている。当時、CIAは「薔薇の木作戦」を実行し、大量のマイクロフィルムを奪取することに成功した。
ドイツ連邦政府は、この文書の返還を求めたが、アメリカ合衆国連邦政府は拒否し続けた。ある時CIAは、BfV駐ワシントン代表にエージェントのリストを閲覧させたが、この際に持ち帰りや複写機による複写が出来ず、筆写しか許されなかった。
ドイツもアメリカもシュタージの記録を解読できなかったことで、暗闘は先鋭化した。この問題は、文書の一部が解読された1999年1月になって、初めて解決した。解読された文書は、1969年から1987年までの記録であり、16万件を超える。現在、シュタージの文書解読と保管には、元反体制派の牧師ヨアヒム・ガウクを長とする40人の職員が従事し「ガウク機関」と通称される(2000年から長がマリアンネ・ビルトラーに交代し「ビルトラー機関」)。文書の総数は、9億件にも上るとされる。
2001年1月2日、インターネット上にエージェント10万人のリストが掲載された。リストには氏名だけではなく、彼らの評価や毎月の報酬まで書かれていた。
2007年11月、デンマークのオーデンセ(Odense)で、南デンマーク大学 (University of Southern Denmark)の冷戦研究センターが主催して、シュタージで諜報活動に従事していた約60人が「冷戦時代の緊迫した平和の生き証人」として証言する会合がもたれた[33]。
2009年、西ドイツにおける学生運動、ドイツ赤軍らによるテロの激化の契機となった、警察官カール=ハインツ・クラスによるデモ参加学生ベンノ・オーネゾルク殺害事件に関して、クラスがシュタージのスパイだったという事実を示す資料が発見された[34]。この事実を各メディアが一斉にトップニュースとして報道し、ドイツ国民に衝撃を与え、高い関心を買うこととなった[35]。ベルリンにあるオーネゾルクの慰霊碑に「スターリニズムによる犠牲者」の文字が付け加えられた。
ソ連の衛星国である東ドイツの情報機関であることから、KGBとは緊密な協力関係にあった。ロシア大統領ウラジーミル・プーチンはKGB勤務時代の1985年から5年間東ドイツに駐在していたが、その際にシュタージの身分証明書も持っていたことが、2018年に明らかになっている[36]。
旧東ドイツの各地では、国家保安省の関連施設が一般公開されている。ベルリンにおいては、シュタージ博物館(旧国家保安省本庁舎、1990年開館)と、ベルリン・ホーエンシェーンハウゼン記念館(旧未決政治犯収容所、1994年開館)が代表的である。
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