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第2代ケンブリッジ公爵ジョージ・ウィリアム・フレデリック・チャールズ(2nd Duke of Cambridge, George William Frederick Charles, KG, KT, KP, GCB, GCH, GCSI, GCMG, GCIE, GCVO, VD, KStJ, PC, PC, ADC(P)、1819年3月26日 – 1904年3月17日)は、イギリスの王族。
ジョージ Prince George | |
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ケンブリッジ公 | |
在位 | 1850年7月8日 – 1904年3月17日 |
続柄 | ケンブリッジ公爵アドルファス王子第1男子 |
全名 |
ジョージ・ウィリアム・フレデリック・チャールズ George William Frederick Charles |
称号 |
ケンブリッジ公爵 ティペラリー伯爵 カロドン男爵 |
身位 | Prince(王子) |
敬称 | His Royal Highness(殿下) |
出生 |
1819年3月26日 ハノーファー王国、ハノーファー、ケンブリッジ・ハウス |
死去 |
1904年3月17日(84歳没) イギリス イングランド、ロンドン、ピカデリー、グロスター・ハウス |
埋葬 |
1904年3月22日 イギリス イングランド、ロンドン、ケンサル・グリーン墓地 |
配偶者 | サラ・フェアブラザー |
子女 |
ジョージ アドルファス オーガスタス |
家名 | ハノーヴァー家 |
父親 | ケンブリッジ公爵アドルファス王子 |
母親 | オーガスタ・オブ・ヘス=カッセル |
ケンブリッジ公アドルファス(ジョージ3世七男)と妃オーガスタの長男として、ハノーファーで生まれた。
彼は父同様軍人としてキャリアを積み、ハノーファー軍に短期間入隊したのを皮切りに、イギリス陸軍で活躍した。一定年数の実戦経験を得た後、陸へ上がり名誉職に退く王族が多い中、職業軍人としてクリミア戦争に従軍した変わり種である。1856年から1895年までの長きにわたって、イギリス陸軍最高司令官であった。
常々「政略結婚は失敗すると決まっている」と公言していたジョージは、1847年、愛人であった女優のサラ・フェアブラザーと結婚した。この結婚については1772年の王室結婚令に背いていることから私的に行われ、サラとの結婚は法的には認められないものとなった。サラはケンブリッジ公爵夫人とも名乗れず殿下 (Her Royal Highness) の称号も使えず、イギリス王室の一員とも認められなかった。サラは、ジョージが与えた姓フィッツジョージ (Mrs. FitzGeorge) を名乗った。愛妻サラが1890年に先立つと、ジョージは取り乱したという。以後、毎年の妻の命日になるとその死を悼んで喪に服すジョージの姿があった。
妻サラ・フェアブラザーとの間に3男をもうけ、全員が軍人となった。なお、王室結婚令に背いた結婚であったことから、子供たちにはフィッツジョージ姓が与えられたが、王位継承権及び公位継承権はなく、ジョージの死をもってケンブリッジ公家は断絶した。のち、ケンブリッジ公爵の称号は、2011年4月29日にウィリアム王子(のちのプリンス・オブ・ウェールズ)とキャサリン・ミドルトンの結婚に伴って復活した。
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