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ダグラス・フェアバンクス(Douglas Fairbanks、出生時の本名はJulius Ullman、1883年5月23日 - 1939年12月12日)は、アメリカ合衆国の俳優、脚本家、映画監督、映画プロデューサーである。息子のダグラス・フェアバンクスJr.も俳優。元妻に女優のメアリー・ピックフォードがいる。
ダグラス・フェアバンクス Douglas Fairbanks | |||||||||
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本名 | Douglas Elton Thomas Ullman | ||||||||
生年月日 | 1883年5月23日 | ||||||||
没年月日 | 1939年12月12日(56歳没) | ||||||||
出生地 | アメリカ合衆国 コロラド州デンバー | ||||||||
死没地 | アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンタモニカ | ||||||||
職業 | 俳優・映画監督・映画プロデューサー | ||||||||
活動期間 | 1915年 - 1935年 | ||||||||
配偶者 |
アンナ・ベス・サリー(1907–1919) メアリー・ピックフォード(1920–1936) シルヴィア・アシュリー(1936–1939) | ||||||||
著名な家族 | ダグラス・フェアバンクス・ジュニア(息子) | ||||||||
主な作品 | |||||||||
『バグダッドの盗賊』 『ドン・Q』 | |||||||||
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息子と区別する為、ダグラス・フェアバンクス・シニア(Douglas Fairbanks Sr.)と表記する場合もある。
1883年5月23日、コロラド州デンバーに生まれた。父親のヒゼキヤ・チャールズ・ウルマンは、ペンシルベニア州でユダヤ人の家庭に生まれ、後に弁護士になった。
10代の頃からデンバーのアマチュア劇団の舞台に立つようになる。この間、コロラドの鉱山学校に通っていた。1900年代初めにニューヨークに移り、ウォール街でハードウェアストアの店員や証券会社の事務員として働いていた。ハーバード大学にも通っていたが中退し、ヨーロッパへ渡った。その後帰国し、演劇に興味を持ち始め、1902年にブロードウェイでデビュー。その後若手スターとして注目された。
1907年に裕福な実業家の娘と結婚し、1909年に息子のダグラス(後のダグラス・フェアバンクスJr.)が生まれる。
1915年にトライアングル・フィルム・コーポレーション傘下でD・W・グリフィスのファイン・アーツ社と週給5000ドルで契約し、映画界に入る。同年公開の『快男子』(原題:The Lamb、監督:クリスティ・キャバンヌ、脚本:D・W・グリフィス)で映画デビュー。作品は大ヒットを記録した。翌1916年公開のグリフィス監督の名作『イントレランス』には「古代バビロン篇」に端役で出演した。
ダグラスは一躍人気俳優となり、1916年に映画製作会社フェアバンクス・ピクチャーズを設立。1919年にはグリフィス、チャールズ・チャップリン、メアリー・ピックフォードと共にユナイテッド・アーティスツ社を設立した。その後『奇傑ゾロ』や『ロビン・フッド』などの冒険活劇映画でヒーロー役を演じ、絶大な人気を得た。ほとんどの作品のアクションシーンをスタントなしで務めており、そのアクロバティックなアクションも人気だった。
1916年に女優のメアリー・ピックフォードとあるパーティで出会い、双方に配偶者がいたが交際するようになる。ダグラスは1919年に妻と離婚、翌1920年にピックフォードも離婚し、同年に2人は結婚した。2人は1936年に離婚しており、ダグラスはその後、イギリス出身の女優・モデル・ソーシャライトで、フェアバンクス亡き後にクラーク・ゲーブルらと結婚したシルヴィア・アシュリーと再婚した。
1926年(大正15年)発行の書籍『何んでも世界一』に「最も収入の多いキネマスター」として掲載されている[1]。
1927年に映画芸術科学アカデミーの初代会長に就任し、名実共にアメリカ映画界のトップに君臨した。1929年には初来日している。1931年には映画監督として『八十日間世界一周』を原作とした『ダグラスの世界一周』(原題:Around the World in 80 Minutes with Douglas Fairbanks)をヴィクター・フレミングと共に監督[2]、これの撮影のために再来日している[3]。
なお、この頃ロサンゼルスオリンピック金メダリストの西竹一男爵(バロン西)とヨーロッパへ向かう船内で親交があり、1932年にロサンゼルスで再会している。
しかし、その後は人気も低迷し、1934年の『ドン・ファン』を最後に引退。以後は映画プロデューサーとして息子のフェアバンクスJr.主演の作品を製作していたが、1939年、カリフォルニア州サンタモニカにて心臓発作で死去。その功績をたたえてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには、息子のフェアバンクスJr.と共に名前が刻まれている。墓はハリウッド・フォーエバー墓地にある。
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